軍人だった父の最期分からず、墓に入るのはガマで拾った石ころ三つ…沖縄戦「慰霊の日」遺族ら祈り

AI要約

沖縄戦の犠牲者らを悼む戦後79年の「慰霊の日」が23日に迎えられた。多くの家族が平和祈願のために平和祈念公園を訪れ、心を込めて犠牲者を偲んだ。

体験者たちは過去の苦難を思い出し、平和な世界への願いを新たにした。戦争がもたらす悲劇を繰り返さないよう訴えた。

記念行事は大雨の影響で一部変更されたが、沖縄の人々は犠牲者を忘れず、平和を願い続けている。

 戦火に倒れた家族や友達、まぶたに焼き付いた凄惨な光景――。沖縄戦の犠牲者らを悼む戦後79年の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄の各地は非業の死を遂げた人々への鎮魂の祈りに包まれた。体験者たちは思い出すのも苦しい記憶を呼び起こし、子や孫たちとともに平和な世界への願いを新たにした。

 犠牲者の名前が刻まれた平和祈念公園(糸満市)の「平和の礎」には、朝から多くの家族連れが訪れた。

 「長生きできるように見守ってね」。那覇市の仲村勇さん(87)は、父・佐市さんの名前を見つめ、手を合わせてつぶやいた。

 軍人だった佐市さんは沖縄戦でけがをし、自然壕(ガマ)にいたと聞いたが、どんな最期を迎えたのか分からない。墓に入っているのは、そのガマから拾ってきた石ころ三つだけだ。

 当時8歳だった仲村さん。母や弟らとサトウキビや雑草を食べながら故郷の首里から本島北部へと逃げ惑った。多くの死体を見たが、恐怖は消えていた。たどり着いたガマでは大人に命じられ、竹やりを持って入り口に立たされた。「死ぬなら戻ろう」。母らと故郷へ向かう途中で捕虜となり、生き延びた。世界で絶えない戦火に憤り、「人を残酷に変える戦争は絶対にしてはいけない」と訴えた。

 那覇市の嘉数好子さん(87)は、従軍していた母・大田千代さんの名前の前で「子や孫、ひ孫の成長を見守ってね」と語りかけた。

 2人は米軍から逃れるため、本島南部の豊見城村(現豊見城市)からそれぞれ南下し、たまたま合流できた。その後、身を寄せた民家に爆弾が落ち、嘉数さんは床下にいて助かった。だが、母は「水を飲みたい」と苦しげにささやき、くんできた池の水をあげたのが最後の記憶という。「親子を引き裂く戦争は二度とあってはならない」。強い口調で語った。

 県は例年、公園内の広場で「平和の火」をともしているが、今年は大雨の影響で設備が故障し、代わりにランタンに火をともした。