「意識」をいかに科学の俎上にのせ、解明していくか? 意識の本丸に挑む!
前回の連載では、意識の定義とその奥深い謎を扱った。今回は、その難攻不落にも思える意識をいかにして科学の俎上にのせ、解明していくかをお披露目したい。
まずは、前回のおさらいから始めよう。
ご愛読、誠にありがとうございました。
映画「ミクロの決死圏」ばりにミニチュアサイズのあなたが、わたしの頭蓋のなかに入ったとしよう。すると、ニューロン群が活動にあわせてほんの少しだけ大きくなり、シナプス間隙に神経伝達物質が放出される様子をあなたは目の当たりにすることになる。
わたしの脳の客観的な側面、たとえば、リンゴを前にしたわたしがそれを視覚的に検知し、腕を操って掴み、そして口元に運ぶといった脳の情報処理のしくみについては、余すことなく解き明かすことができる。
脳の意識とは、客観的な立場=わたしの頭蓋のなかの「あなた」からすると到底宿りそうにないもの、それでいて、主観の立場=神経回路そのものである「わたし」からすると、なんら疑いの余地なく宿るものだ。
この客観と主観の間のギャップ(矛盾)は、数千年にわたり哲学者を悩ませてきた。「我思う、ゆえに我あり」の命題で知られるルネ・デカルトもそのひとりだ。彼の言う「我」とは、まさに、ここで言うところの「わたし」にほかならない。
前回の連載では、意識の定義とその奥深い謎を扱った。今回は、その難攻不落にも思える意識をいかにして科学の俎上にのせ、解明していくかをお披露目したい。その先には技術としての「意識のアップロード」が待っている。
まずは、前回のおさらいから始めよう。
ご愛読、誠にありがとうございました。
本連載(全8回)は、大幅加筆のうえ、再構成し、2024年6月、
『意識の脳科学――「デジタル不老不死」の扉を開く』(講談社現代新書)として刊行されました。
映画「ミクロの決死圏」ばりにミニチュアサイズのあなたが、わたしの頭蓋のなかに入ったとしよう。すると、ニューロン群が活動にあわせてほんの少しだけ大きくなり、シナプス間隙に神経伝達物質が放出される様子をあなたは目の当たりにすることになる。わたしの脳の客観的な側面、たとえば、リンゴを前にしたわたしがそれを視覚的に検知し、腕を操って掴み、そして口元に運ぶといった脳の情報処理のしくみについては、余すことなく解き明かすことができる。
一方で、そのときにわたしが体験する、目にしたときのリンゴの赤さ、手で掴んだときの重み、口にしたときの甘酸っぱさを彷彿とさせるものは脳のどこにも見当たらない。それらを体験するには、あなたの目の前に広がるわたしの神経回路網そのものにならなければならない。
しれっと記したが、意識の奥深い謎とは、まさに、神経回路網に「そのものになる感覚」が生じることだ。所詮は物質にすぎず、細胞の塊にすぎず、一風変わった電気回路に過ぎないのにもかかわらず。
脳の意識とは、客観的な立場=わたしの頭蓋のなかの「あなた」からすると到底宿りそうにないもの、それでいて、主観の立場=神経回路そのものである「わたし」からすると、なんら疑いの余地なく宿るものだ。
この客観と主観の間のギャップ(矛盾)は、数千年にわたり哲学者を悩ませてきた。「我思う、ゆえに我あり」の命題で知られるルネ・デカルトもそのひとりだ。彼の言う「我」とは、まさに、ここで言うところの「わたし」にほかならない。