文明崩壊の後に訪れたのは、「暗黒時代」か「ルネサンス」か。「古代ギリシア」エーゲ文明の興亡がナゾすぎる!

AI要約

古代ギリシアの歴史を探る。エーゲ文明、ミノア文明、ミュケナイ文明などが興亡し、ギリシア人の到来により繁栄した。

文明の崩壊や謎の集団「海の民」について。ミノア文明やミュケナイ文明の崩壊原因を考察する。

地中海世界の歴史を通じ、ギリシア文化の栄枯盛衰をたどる。

文明崩壊の後に訪れたのは、「暗黒時代」か「ルネサンス」か。「古代ギリシア」エーゲ文明の興亡がナゾすぎる!

「古代ギリシア」と聞いて、まず思い浮かぶのはアテネのアクロポリス、古代オリンピックとギリシア悲劇、ソクラテスやプラトンの哲学などだろう。しかしそれらは、紀元前5世紀頃から前4世紀末に最盛期を迎えた「古典期ギリシア」の文化だ。歴史上の「古代ギリシア」とは、2000年以上におよぶ長い期間の文明である。その間には、いくつもの文明が興亡を繰り返したのだが、今もその実像はわからないことだらけなのだ――。

4月に刊行が始まった「地中海世界の歴史〈全8巻〉」(講談社選書メチエ)の第3巻『白熱する人間たちの都市 エーゲ海とギリシアの文明』から、この海に栄えた文明のドラマを追ってみよう。

著者の本村凌二氏(東京大学名誉教授)は、本書冒頭でこう書き起こしている。

〈ローマ帝国の人々が「われらが海」と自負した地中海、とりわけその東部にあるエーゲ海は紺碧に彩られた人類の愛する海である。この美しい情景のなかで、古来、ギリシア人はこの世を讃美することにことさら熱心であったという。(中略)やがて、人間は自由であり平等であることを自覚するようになり、その政治表現として民主主義すら生み出すようになった。〉(『白熱する人間たちの都市』p.3)

紺碧の海の美しい情景のなかで、パルテノン神殿やアテナイ民主政に代表される華麗で理知的なギリシア文化が繁栄するまでには、2000年以上の時間が必要だった。

紀元前3000年頃に始まる「エーゲ文明」と総称される文明は、その前半をミノア文明(クレタ文明)、後半をミュケナイ文明に代表されるが、ほかに小アジアのトロイアや、キクラデス諸島などにも独特の文明が展開していた。

ミノア文明はクレタ島を中心として栄え、クノッソスなどに華麗な宮殿を造営した。しかし、それがどんな人々だったのか、まず、その来歴が定かではない。ギリシア人が到来する以前の、東方や南方から渡来したオリエント系の人々だったらしいが、そこで使用されていた文字(線文字A)はいまだに解読されていないのである。

そしてこのミノア文明は、15世紀半ばに急激に衰退する。

〈このミノア文明の崩壊期に目を向ければ、前15世紀半ばに、クレタ島の宮殿が猛火にさらされ、灰燼に帰したという。自然災害説もあるが、おそらくミュケナイ王国と似かよった人々が占拠するようになり、それに呼応して地方の下層住民が蜂起し略奪をくりかえしたことも考えられる。〉(同書p.24)

一方のミュケナイ文明は、前1600年頃にギリシア本土に始まった。後に「ギリシア人」とよばれるアカイア人による文明で、使用した文字「線文字B」ではギリシア語が記され、解読が進んでいる。

ミュケナイ文明は、王宮と村落をそなえたいくつかの王国が群立した文明だった。素朴な官僚機構も整えていたらしい。ところが、この文明も突然のように崩壊する。

〈前1200年頃になると、突然のごとく王宮が炎上し破壊された形跡が残っている。そのために、のちに移住して来たドーリア人が破壊したという見方がかつては唱えられた。その後、東地中海の各地に出現した「海の民」の襲撃や略奪によって一挙に崩壊したのだという考え方も出てきた。(中略)さらに、気候変動による飢饉や疫病の蔓延を考える見解もあり、また、それぞれの王国が群雄割拠し、戦争をくりかえしていくなかで、国力を弱めていったとも考えられている。〉(『白熱する人間たちの都市』p.32-33)

「海の民」とは、何らかの原因で故郷を離れ、離合集散をくり返しながら、軍事力を備えた「海洋の遊牧民」のような集団だった。前2千年紀末期に活発化し、彼らが荒らし回った痕跡は、東地中海地域一帯に残っているが、その正体は不明なのである。

いずれにしろ、凄まじいばかりの混乱と変動があり、ミュケナイ文明が壊滅すると、線文字Bの文字文化も失われてしまった。