ギリシア文明の起源はエジプトにあり? ペルシア辺境の「小文明」が、「ヨーロッパの源流」と尊重された理由。

AI要約

ギリシア文明はアジア・アフリカの影響下で誕生したとされ、古代ギリシアの特異性と成り立ちを再考する必要がある。

イギリスの歴史学者マーティン・バナールによる『ブラック・アテナ』では、ギリシア古典文明のアジアとアフリカの影響が強調され、欧米の歴史観に疑念を投げかけている。

本村凌二氏は、日本とギリシアの文化が外部の影響を受けつつも独自性を磨き上げた共通点を指摘し、バナールの説を支持している。

ギリシア文明の起源はエジプトにあり? ペルシア辺境の「小文明」が、「ヨーロッパの源流」と尊重された理由。

「ヨーロッパ文明の源流」といわれる古代ギリシア。しかし、そうした見方は、いまや単純にすぎる。そもそもギリシア文明は、アジア・アフリカの強い影響下に誕生した文明だったというのだ。メソポタミア、エジプトからローマ帝国にいたる古代文明史「地中海世界の歴史〈全8巻〉」の最新第3巻では、ギリシア文明の特異性とともに、その成り立ちの意外な側面を紹介している。

古代ローマ史の研究者で東京大学名誉教授の本村凌二氏が、4000年の古代文明史を一人の視点で見直していくシリーズ「地中海世界の歴史〈全8巻〉」。すでにオリエント文明を扱う第1巻・第2巻が刊行され、好調な売れ行きを見せている。

そして第3巻『白熱する人間たちの都市』では、エーゲ海とギリシアの文明を取り上げる。

従来は、「地中海世界」といえば「ギリシア・ローマ世界」のことだった。また、「ヨーロッパ史」とは、ギリシア・ローマを起点として、キリスト教世界とヨーロッパ文明の発展を語ることだったのである。そこにはメソポタミアやエジプト、シリアやペルシアなどの「オリエント文明」の出番はなかった。しかし――、

「ギリシア・ローマをオリエントと切り離して考えるのは、古代ギリシアを自らの祖先と考えるヨーロッパ人の、願望も含んだ捉え方なので、私たちユーラシアの東の人間がそこにこだわる必要はないわけです。むしろ東側から素直に見れば、オリエント文明とギリシア・ローマはつながっているんじゃないでしょうか。」(本村氏)

実は欧米の歴史学者のあいだでも、20世紀の終盤以来、そうした歴史観への疑念が示されている。とりわけ、イギリス出身の歴史学者マーティン・バナールが1987年に発表した『ブラック・アテナ』は、激しい議論を巻き起こした。

〈彼の主張するところでは、ギリシア古典文明は、その深層において、アジアとアフリカの文明に起源をもっているという。なかでも、レヴァント(フェニキア)とエジプトの影響は著しいものがあった。(中略)エジプトについても、その長く豊かな伝統をもつ先進文化が「未開な」ギリシアに多大の影響をもたらしたことは想像に難くない。〉(『白熱する人間たちの都市』p.72)

たとえば、ギリシア・アルファベットは、フェニキア文字のアルファベットを素地として開発されている。また、石造彫刻などを見れば、先進文明のエジプトからその技法を学んでいたことは歴然としているという。

さらに驚くべきことに、〈このオリエントの優越性や先進性については、古代のギリシア人にはまったく周知のことであった〉(同書p.72)というのだ。

本村氏によれば、「このバナールの説は日本人には理解しやすいところがある」という。というのは、

〈ギリシアも日本も、言語、宗教およびその他の文化的影響を長期にわたって外部から受け入れながら、外部の文明に決して吞みこまれず、取捨選択を重ねながら、立派に土着の独自性を磨きあげてきたのだ。〉(『白熱する人間たちの都市』p.74)

明治以前の日本では、文化の中心は漢学や漢方などであり、大陸アジア、特に中国への敬愛は並々ならぬものがあった。それが、アヘン戦争や日清戦争、さらに欧米列強の植民地と化した中国や、戦後の困窮と革命のなかで右往左往する中国社会の混乱を見るうちに、日本人の中国観のなかにかつての敬愛の念は薄れていった。

〈同じようなことが、ギリシアの古典古代を西洋文明のルーツと考えていたヨーロッパ人のなかでも生じたのだ、とバナールは主張する。とくに18世紀以降の近現代人は、ギリシア古典文明へのアフロ・アジア語族の文化的影響を意図的に無視してきたのだ。その根底には、おそらく主として人種差別の意識がかくれていたにちがいないという。〉 (同書p.73)