首里城の地下に眠る沖縄戦の遺構「第32軍司令部壕」、79年を経て現代に訴えるもの

AI要約

1944年の沖縄戦で旧日本軍が構築した「第32軍司令部壕」の一部が公開され、その堅牢な構造が残っている。

司令部は首里城の地下にあり、将校たちは作戦遂行のためにこの壕を利用し、最終的に自然壕に移動した。

日本軍の陣地構築や作戦構想、大本営の判断による方針転換など、歴史的戦争の背景が明らかになっている。

首里城の地下に眠る沖縄戦の遺構「第32軍司令部壕」、79年を経て現代に訴えるもの

20万人あまりもの人が亡くなった1944年の沖縄戦の際、旧日本軍が構築した「第32軍司令部壕」の一部が5月、報道機関に公開された。首里城の地下に眠る壕は堅牢な姿を79年後の現代に残している。だが、32軍司令官だった牛島満中将らは最終的に、この場所を捨てて南部の摩文仁(まぶに)の丘(糸満市)にある自然壕に立てこもった。その結果、多くの沖縄県民の犠牲も生んだ。堅牢な司令部を捨てた経緯は、現代にも様々な教訓を与えている。(牧野愛博=朝日新聞外交専門記者)

今回、公開されたのは、司令部中枢に近い「第2坑道」「第3坑道」と呼ばれる区域。壕は首里城(那覇市)の地下にあり、5本の坑道の総延長は約1キロ。坑道は高さ1.2~2メートル、幅1.3~2.8メートルで、所々に落石や水たまりがあった。

当時、ここに立てこもった日本軍将校らは、様々な設備を目の当たりにして「ホテル並みだ」と喜んだという。こうした陣地づくりは作戦遂行のうえで大きな意味を持つ。ウクライナが昨年の反転攻勢に失敗した背景には、「スロビキンライン」と呼ばれるロシアの堅牢な陣地の抵抗があった。

第32軍は1944年3月、沖縄にある飛行場守備などを目的に大本営直轄で編成された。当初の作戦構想は、第9、24、62の3個師団と独立第44混成旅団(師団の半分の規模)という「3.5個師団」が、上陸した米軍を南北から挟み撃ちにして撃滅するというものだった。

日本軍は米軍を撃退するという作戦構想を前提としており、司令部も長期戦に耐えられる堅牢なつくりになっていた。経済の中心地であり、交通の要衝であった首里を最終的な防衛拠点に選んだのは自然の流れだった。

ところが、1944年7月、サイパンが陥落して「絶対国防圏」が崩壊した。大本営はフィリピンで米軍を食い止めるつもりだったが、同年10月のレイテ沖海戦で大敗し、フィリピンの日本軍はほぼ壊滅状態に陥った。大本営は1945年1月、より本土から離れた場所で米軍を食い止めるため、第32軍の第9師団を台湾に転出させることを決めた。陸上自衛隊東北方面総監を務めた松村五郎元陸将は「本土決戦だけは避けたいというのが、大本営の考えでしたが、劣勢に回った軍の宿命で、対応が後手後手になりました」と語る。

第32軍は戦力の3割近くを占める第9師団の転出に強く反発したが、大本営の戦争指導もあり、作戦に大きな変更を加えなかった。松村氏は「陣地を築くことを築城と言いますが、一度工事を始めた築城を途中で変更することは極めて難しいのです。第32軍の勢力が縮小されたことで、本来なら築城方針も根本的に修正する必要がありましたが、実際には小さな修整しかできなかったのだと思います」と語る。