沖縄戦の元少年ゲリラ兵「忘れたら、あの地獄がまた来るよ」…爆薬背負って敵の戦車に突入命令も

AI要約

沖縄戦の犠牲者らを悼む戦後79年の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄各地で非業の死を遂げた人々への鎮魂の祈りが捧げられた。

瑞慶山良光さんは沖縄本島北部で米軍に対してゲリラ戦を展開した16歳の護郷隊員の一人であり、過酷な訓練と特攻作戦を経験した。

瀬戸隆博さんによると、護郷隊は14~18歳の少年を中心に集められ、訓練を受けていた。しかし、敵との戦闘において多くの犠牲者を出した。

 戦火に倒れた家族や友達、まぶたに焼き付いた凄惨な光景――。沖縄戦の犠牲者らを悼む戦後79年の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄の各地は非業の死を遂げた人々への鎮魂の祈りに包まれた。体験者たちは思い出すのも苦しい記憶を呼び起こし、子や孫たちとともに平和な世界への願いを新たにした。

 大宜味村の瑞慶山良光さん(95)は23日、自宅敷地内にあるヒカンザクラの木を見つめた。「多くの学友や親類が戦争に動員され、散っていった。彼らを弔うために植えたんです」

 瑞慶山さんは村の青年学校に通っていた1945年3月、沖縄本島北部で米軍に対してゲリラ戦を展開する「護郷隊」に同級生らとともに動員された。当時16歳。「役場に呼び出されて移動させられ、訓練が始まった」と振り返る。

 護郷隊を調査している恩納村村史編さん係の瀬戸隆博さん(56)によると、隊は諜報員を養成する陸軍中野学校出身者が編成した。14~18歳の少年を中心に約1000人が集められた。

 米軍は4月1日、本島中部に上陸した。身長わずか1メートル40しかなかった小柄な少年は、たった2、3週間、ほふく前進や銃剣装着の訓練を続けた後、恩納岳を拠点に、北上する米軍との戦闘に突入した。

 同7日、上官から「斬り込み」を命じられた。3人1組になり、爆薬を詰めた木箱を背負って敵の戦車に突っ込む。生きては帰れない特攻作戦だった。「逃げれば家族に害が及ぶと聞かされ、従うしかなかった」

 米軍の発電設備が別の部隊に攻撃され、目標が定められず未遂に終わったが、1週間もしないうちに敵陣近くに地雷を埋める命令を受けた。闇夜にまぎれて近づいたが、物音で気づかれ、敵の手榴弾が飛んできた。爆発して破片が右頬に突き刺さり、奥歯を4本折る重傷を負った。

 野戦病院では負傷者が次々に息絶えていった。口の傷で食事がまともに取れず衰弱した瑞慶山さんも、遺体の埋葬を手伝わされた。20代半ばの親戚の亡きがらも埋めた。「もう子どもを産んだかねえ……」。親戚は身重の妻を思ってつぶやくと、息を引き取った。