# 第32軍

「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】
2024.06.29

「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】

6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄には、今からちょうど80年前に大本営直轄の第32軍が配備され、その後の地上戦に突入していきました。軍の存在は、どう沖縄の社会を変え、人々を戦争に導いていったのか。沖縄のいわゆる「戦前」から80年後の「今」を考えます。■首里城の地下に「第32軍司令部壕

首里城の地下に眠る沖縄戦の遺構「第32軍司令部壕」、79年を経て現代に訴えるもの
2024.06.27

首里城の地下に眠る沖縄戦の遺構「第32軍司令部壕」、79年を経て現代に訴えるもの

20万人あまりもの人が亡くなった1944年の沖縄戦の際、旧日本軍が構築した「第32軍司令部壕」の一部が5月、報道機関に公開された。首里城の地下に眠る壕は堅牢な姿を79年後の現代に残している。だが、32軍司令官だった牛島満中将らは最終的に、この場所を捨てて南部の摩文仁(まぶに)の丘(糸満市)にあ

沖縄戦を指揮した日本軍司令官の孫、平和学習の講師に 南部撤退で住民の犠牲が拡大「祖父は沖縄を本土防衛の防波堤と考えていた」
2024.06.23

沖縄戦を指揮した日本軍司令官の孫、平和学習の講師に 南部撤退で住民の犠牲が拡大「祖父は沖縄を本土防衛の防波堤と考えていた」

 沖縄戦を指揮した第32軍の牛島満司令官の孫牛島貞満さん(70)が19日、沖縄県豊見城市立豊崎中学校で平和学習を行った。牛島さんは、第32軍が決定した南部撤退により軍民混在の状況で住民犠牲が広がったことを解説。牛島司令官は本土決戦が必ずあると思っており、「沖縄は本土防衛のための防波堤という考え

沖縄戦の犠牲拡大させた「南部撤退」研究重ねる米国の若者…生き残った男性「知る限りのこと伝えたい」
2024.06.21

沖縄戦の犠牲拡大させた「南部撤退」研究重ねる米国の若者…生き残った男性「知る限りのこと伝えたい」

 武装していない一般住民が巻き込まれる戦争を二度と繰り返してはならない――。79年前の沖縄戦で起きたことを広く伝えたいと、国や世代を超えて動き出した若者たちがいる。 「『南部撤退』が決定された第32軍司令部壕を、広島の原爆ドームのように世界文化遺産に登録するという考えをどう思いま

首里城の地下「沖縄戦の軍司令部壕」、水浸しの床に複数の空き瓶…一般公開を視野に保存進む
2024.05.23

首里城の地下「沖縄戦の軍司令部壕」、水浸しの床に複数の空き瓶…一般公開を視野に保存進む

 沖縄県は22日までに、旧日本軍が那覇市・首里城周辺の地下約10~30メートルに構築し、太平洋戦争末期の沖縄戦で重要作戦立案の舞台となった第32軍司令部壕(総延長約1キロ)の一部を報道陣に公開した。79年前の5月22日、多数の住民を戦火に巻き込むきっかけとなった「南部撤退」が決定された場所で、

沖縄戦「南部撤退」を決めた第32軍司令部壕を報道陣に公開…参謀寝室は目視で確認できず
2024.05.23

沖縄戦「南部撤退」を決めた第32軍司令部壕を報道陣に公開…参謀寝室は目視で確認できず

 沖縄県は22日までに、旧日本軍が那覇市・首里城周辺の地下約10~30メートルに構築し、太平洋戦争末期の沖縄戦で重要作戦立案の舞台となった第32軍司令部壕(総延長約1キロ)の一部を報道陣に公開した。79年前の5月22日、多数の住民を戦火に巻き込むきっかけとなった「南部撤退」が決定された場所で、

第32軍司令部壕 第2坑道と第3坑道の内部を撮影
2024.05.22

第32軍司令部壕 第2坑道と第3坑道の内部を撮影

沖縄戦で旧日本軍が、首里城の地下に造った「第32軍司令部壕」にカメラが入りました。いまだ明らかになっていない部分も多い壕の内部の様子とは。土砂や岩のようなものが堆積し足元には水が溜った大人がかがまないと通れないほど狭く薄暗い道。これは旧日本軍が、首里城の地下に造った「第32軍司令

沖縄戦司令部壕のパンフレット 「平和学ぶ機会に」と同県作成
2024.05.10

沖縄戦司令部壕のパンフレット 「平和学ぶ機会に」と同県作成