北海道北斗市歴史研究会会長島津さん、戦時下の旭川・樺太師範学校を調査 平和希求の土台へ

AI要約

北斗市歴史研究会会長の島津彰さんが太平洋戦争下の師範学校について調査結果をまとめ、戦没者の実像や若者の抱えた悲しみを紹介している。

当時の師範教育において、国家奉仕が優先され、戦争遂行のための教育が行われていたことが明らかにされている。

調査を通じて戦争による若者たちの犠牲と、遺族の悲しみが改めて伝えられることによる絆の大切さが強調されている。

 【北斗】北斗市歴史研究会会長の島津彰さん(74)は、太平洋戦争下の旭川と樺太の師範学校における、師範教育や戦没者について、文献や記録をもとにこれまで調査した結果をまとめた。「今回の調査では同期生が残した回顧や、残された遺族の声を中心にまとめた。遺稿や遺族の思い出などを通して学徒兵の実像に迫るとともに、若者の将来の夢を絶った時代の潮流を見つめ、平和希求の土台としたい」と話す。

 ふるさとである北斗市の歴史研究に取り組んでおり、昨年は上磯国民学校(現北斗上磯小学校)における戦時下の教育と暮らしについて研究し、まとめた。近年は道内の国立大学の戦没者に関する調査にも力を向けており、今回は旭川師範学校(現道教育大旭川校)と、樺太師範学校からそれぞれ7人の戦没者を中心に、本人が残した遺稿や同期生、親族の声などをまとめた。

 当時の師範教育について「官費支給によりほぼ無償の状況下では、国家に奉仕する人材育成方針が優先された」と紹介。特に「アジア・太平洋戦争下においての師範教育は、戦争遂行のため、教育本来の姿から大きくゆがめられ、学校教練(軍事教練)や勤労奉仕活動など、個よりも集団や国家を優先した生活が重んじられ、国家のために身をささげることが当然だと思わせる教育が行われた」とする。

 1943年9月に旭川師範学校を卒業し、44年10月、レイテ沖海戦にて戦艦扶桑に乗船し戦死した、西田政雄海軍中尉が残した扶桑出撃前の9月中旬の手紙では、「当初は何をしてよいのか、ただうろうろと迷っていた状態です。―今はただなんの未練もなく潔い死所を与えられるようにとの念願だけです」などと、当時の心境を語っている。

 同じく43年9月に卒業し、45年6月に朝鮮南部の麗水沖にて戦死した岸本千里海軍一曹の母親は、長男をガダルカナル(42年11月)で、次男を台湾沖の輸送船(44年1月)で亡くし、続けて三男の千里さんを失った心情を後に「あるたけの むすこうばひし 東亜戦 過ぎにし今は 夢かと思う」と詠むなど、残された家族の悲痛な思いを紹介している。

 このほかにも樺太師範学校を卒業し戦死した海兵の同窓生の回顧など、当時を懸命に生きた若者たちの声や思いを紹介。樺太師範学校教育実践記録では、終戦間際、旧ソ連軍が国境を越え進軍してくる様子を伝えているほか、当時の学校教諭の日記を一部抜粋し紹介。「終戦前後の樺太における緊迫した様子がみてとれ、民間人の犠牲者が複数いる中でなんとか北海道まで逃避行できたことは、師範学校の教員の力が大きかったと推察される」としている。

 今回の研究調査を通じて「戦死された人たちにはかけがえのない人生があったはずで、戦争によりそれが奪われた時代があったことを、後世に伝えようとする絆に改めて心を動かされる」と説明。「遺族の深い悲しみは例えようがなく、残された家族の苦悩は続いている」と話している。