戦後の惨状…今も「助けられなかった後悔」 夫が残した水俣病「乙女塚」守る砂田さん【くまもと戦後79年】

AI要約

水俣市袋の高台で暮らす砂田エミ子さん(97)は、水俣病の犠牲となった全ての命を弔うために自宅近くに建立された「乙女塚」を守りながら生きてきた。

東京で生まれた砂田さんは幼いころから埼玉県秩父市の親戚宅に預けられ、10代半ばのときに与野(現さいたま市)にあったレース生地工場に就職し、工場内の寮に移り住んだ。

太平洋戦争が始まったころ、砂田さんは工場で竹やりや消火のためのバケツリレーを練習する日々を送っていた。戦況が悪化するにつれ、食事がますます厳しくなり、飛行機の襲来で夜毎死を覚悟していた記憶が残っている。

終戦後、浅草への散歩や仕事を通じて若かりし頃を過ごしていた砂田さん。しかし、終戦直後の東京で困窮する人々を目にし、自分が助けたくてもできなかった後悔が今も心に残っている。

戦後の惨状…今も「助けられなかった後悔」 夫が残した水俣病「乙女塚」守る砂田さん【くまもと戦後79年】

 水俣市袋の高台で暮らす砂田エミ子さん(97)は、水俣病の犠牲となった全ての命を弔うために自宅近くに建立された「乙女塚」を守りながら生きてきた。太平洋戦争のさなかに埼玉県の工場寮で空襲におびえて過ごした日々。焼け野原になった戦後の東京の駅で見た惨状の記憶。「助けたくても助けられなかった」という後悔が、今も水俣病被害者と共に歩む生き方の根底にある。

 東京で生まれた砂田さんは幼いころから埼玉県秩父市の親戚宅に預けられ、10代半ばのときに与野(現さいたま市)にあったレース生地工場に就職し、工場内の寮に移り住んだ。太平洋戦争が始まったころだった。

 「食事がだんだんひどくなってきてね。おかゆと呼べるのか、菜っ葉に米粒が付いたようなものよ。それでも、食べられただけ良かったほうだと思う」。戦況が悪化するにつれ、レースの需要は減り、工場で竹やりや消火のためのバケツリレーを練習したことが記憶に残っているという。

 戦争末期になると、米軍の飛行機が東京周辺に連日襲来した。「毎晩のように飛行機が空一面にいるようにごうごうと音が響いて、『今日は死ぬ、今日は死ぬ』と思って過ごしていた。寝るときは大切な物を全部かばんに入れて、すぐに外に出られるようにしていた。まるで空襲を待っているみたいに」

 砂田さんの記憶では、幸い工場が空襲に遭うことはないまま敗戦を迎え、終戦後も同じ工場で働いた。当時、青春時代の真っ盛り。「遊びに行くことばかり考えていて、休みの日はよく浅草に出かけていたのよ」。その時、砂田さんの顔が一瞬だけほころんだ。

 しかし、終戦直後の東京で見た光景は今も鮮明な記憶として残っている。浅草へ向かう途中の上野駅では、赤ちゃんを抱く母親たちが地下道のコンクリートの上に横たわっていた。アコーディオンを奏でて寄付を請う白装束の傷痍[しょうい]軍人もよく見かけた。しかし、困窮にあえぐたくさんの人たちを前に、ほかの人と同じように何もできなかった。「自分を助けるだけで、当時は精いっぱいだった」。その時の記憶は後悔とともにずっと残った。