謎多き京都を取り囲んだ豊臣秀吉の「御土居」 出土品の有無から徳川幕府の再開発説も浮上

AI要約

豊臣秀吉が整備した御土居の堀は意外な形状や特徴を持ち、外敵からの侵入を防ぐために設計されていた。

京の七口の一つである丹波口に近い御土居は、くい違い虎口と障子堀を組み合わせて敵の侵入を防ぐ工夫が凝らされていた。

さまざまな形状を持つ御土居の堀は、水田状の底やデコボコした底など、独自の構造が確認されており、水の流れを利用していた。

謎多き京都を取り囲んだ豊臣秀吉の「御土居」 出土品の有無から徳川幕府の再開発説も浮上

天下をほぼ手中にした豊臣秀吉が天正19(1591)年、京都を取り囲むように整備した御土居(おどい)。着工からわずか2~4カ月で全長22・5キロメートルの土塁と堀を完成させるが、造られた堀は場所によってさまざまな表情を見せる。一方で設置目的は町を外敵や水害から守るほか、市域の確定など諸説あり、よく分かっていないのが実情だ。そこで発掘調査取材歴35年の記者が近年の発掘調査を基に探っていると、意外な盲点に気づかされるのだった。その盲点とは-。

■底はデコボコだらけ

昨年暮れから京都市中央卸売市場(京都市下京区)で行われた調査では、堀の底をかまぼこ型に連ねて掘った凹凸状遺構が出土した。「障子堀」と呼ばれるもので、小田原・北条氏の山中城や豊臣時代の大坂城・三の丸の堀でも見られる形状という。

底を細かく区切って敵の侵攻を妨害する。しかも水に浸された表面は粘土で滑りやすい。調査した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長は「外敵の侵入を防ぐため意図的に設けられている」との見方だ。

現場が京都に出入りする京の七口の一つ、丹波口に近いことが御土居の性格をひもとく一つのヒントになるだろう。丹波口は山陰道につながる京の西の玄関口。東西に走る道路に対して、すんなりと通れないように出入り口を南北を向けた「くい違い虎口(こぐち)」を採用しているのだ。

大軍が七条大路から京に向かって進めば土塁と堀に行く手を遮られる。しかも堀の底がデコボコであるために渡るのも至難の業で、渋滞しているところで御土居内からの攻撃を受ける。

南氏は「くい違い虎口と障子堀の存在が、七条大路が当時の京都にとってどれだけ重要なルートだったかを教えている」として、ほかの七口での今後の調査に期待を寄せる。

■水田状の底

続いて今年、京都市南区の九条油小路で出土した御土居の堀を紹介したい。

幅約20メートル、深1・2~1・4メートル。底の形状は過去の調査を合わせると、かまぼこ型の中央市場とは異なる。一辺6~8メートル、深さ0・1~3メートルと浅い方形区画が水田のように並んだ、のどかな光景になっている。

こちらも帯水した跡が出ているが、底は砂と小石の砂礫(されき)層。「これでは水が抜ける」とも思ったが、地下水が地上に出るスレスレまで掘り、大雨か洪水の発生で堀にしばし帯水する間に土がたまるシステムになっているという。