賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動

AI要約

加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人として知られる猛将で、豊臣家や徳川幕府で活躍したが、10年後に改易された。

「家風」とは、家に特有の独自の気風や習慣を指し、加藤家の家風は嘉明の考えや行動が引き継がれたものと考えられる。

加藤嘉明の家は三河国から移住した岸家の出身で、豊臣家や徳川幕府で数々の武功を挙げる。

賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動

■秀吉も評価した剛毅な加藤嘉明

 加藤嘉明(かとうよしあき)は賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人として知られ、同僚の加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)の方がより広く知られていますが、2人に負けない猛将として数々の武功を挙げています。豊臣家の直臣として、賤ヶ岳の戦いから小田原征伐などで活躍し、文禄慶長の役でも功名争いに邁進し、積極策を主張するなど秀吉から高い評価を受けています。

 徳川幕府においても家光の介添え役を務め、東北の抑えともいうべき会津を任されるなど、加藤家の武勇を期待されていましたが、嘉明の死後10年ほどで改易されてしまいます。

 これは嘉明が生んだ加藤家の「家風」に原因があると思われます。

■「家風」とは?

「家風」とは辞書によると「その家に特有の気風・習慣。その家の流儀や作法など」とされています。それぞれの家に、世代を通じて受け継がれてきた独自の慣習や気風、暗黙のルールをさして「家風」とも言います。

 嫁入りや婿入り、養子などで外部から家族の一員となった者には、「家風」の尊重と同化が求められます。但し、年数を重ねることで変化することも多く、またその当初の目的や理由は失われて形だけが残されがちです。

 これは企業などの組織団体では「社風」と言われるものです。加藤家も一代で作り上げた嘉明の考えや行動が、「家風」として引き継がれたと考えられます。

■加藤家の事績

 嘉明の加藤家は、本来は甲斐国から三河国に移住した岸家を出自としています。父の岸教明(きしたかあき)が三河一向一揆で一揆方として家康に敗れ、秀吉に仕える際に加藤を名乗ります。加藤光泰(かとうみつやす)の父貞泰(さだやす)の猶子(ゆうし)となり、推挙されたためと言われています。

 嘉明は羽柴秀勝(はしばひでかつ)の小姓から秀吉の直臣となり、別所家との三木合戦にて武功を挙げます。山崎の戦いでの活躍で300石の加増を受けると、賤ヶ岳の戦いでは後に七本槍と称される戦功を挙げ、3000石を得ています。また、四国征伐での伊予国平定での功績で淡路国津名1万5000石を受け、若くして大名となります。

 九州征伐や小田原征伐にも水軍として従軍し、文禄の役後に伊予国正木の加増で6万石を得ています。続く慶長の役での活躍も秀吉から高く評価され、10万石となります。関ヶ原の戦いでは東軍として勝利し、伊予国正木20万石を領すると、現在も残る松山城を建てて居城とします。

 その後は1627年に蒲生家の後を受けて、会津43万5500石に加増移封され、重要な東北の抑え役を担います。

 このような華々しい活躍の裏で、嘉明は同僚や家臣との衝突を引き起こしています、そして、それが加藤家の成功事例となり、「家風」のようになったと思われます。