78歳からSNS、フォロワー20万超 反戦訴え 大崎博子さん逝く

AI要約

大崎博子さんが旅立ったことで、石神井公園の悲しみが広がった。彼女は90歳を超えても団地でひとり暮らしを楽しんでおり、ツイッターを通じて戦争反対を訴え続けていた。

大崎さんは戦争体験者であり、「後期高齢者」という呼び名を採用するほど自由奔放に生きた。彼女は日々コツコツと家事をし、活動を続けていた。

彼女の葬儀では多くの友人が参列し、娘とその家族も涙を流していた。大崎さんの人生は自由を楽しみ、どこまでも丁寧に生きた素晴らしいものだった。

78歳からSNS、フォロワー20万超 反戦訴え 大崎博子さん逝く

 おばあちゃんになっても団地でひとり暮らし。おカネもない。でも、いまが一番、幸せ。そんな生き方をつづった著書がベストセラーになった大崎博子さんが7月23日に旅立った。享年91。78歳で始めたX(ツイッター)のフォロワーは20万を超え、8月になると自身の体験をもとに「戦争反対!」を訴え続けた。

 その死に大崎さんが住んでいた東京都練馬区の石神井公園かいわいは悲しみが広がった。私もそのひとりだ。公園を散歩し、太極拳で体をほぐし、喫茶店でおしゃべり。健康マージャンの会にも通った。白髪を薄い紫色に染め、ジーンズのおしりのポケットにスマートフォンを差し込み、さっそうと歩く。コロナ禍のさなかに出会ったが、わがまちの自慢だった。駅前の本屋には5万部を突破した「89歳、ひとり暮らし。」や「90歳、ひとり暮らしの知恵袋」(いずれも宝島社)が積まれ、追悼のポップまで立った。

 1932年、茨城県に生まれた大崎さん、70歳まで結婚式場の衣装アドバイザーとして働いた。携帯電話も持っていなかったほど機械は苦手だったが、ロンドンにいる娘のすすめでパソコンを買い、さらにスマホも手にした。「ちょうど東日本大震災が起き、原発が怖くて、その思いをツイッターでつぶやいたら、1日1000人ずつ増えて」。日々、気の向くまま、好きな相撲や韓流ドラマ、K―POP、目にした四季の花や晩酌のお供の写真などを投稿した。女優の二代目水谷八重子さんや歌手のミッキー・カーチスさんら有名人もフォロワーになった。

 夏になると発信に力がこもった。「日本が戦争に負けた8月ね。つい長い文章が書きたくなるの。戦争体験者でツイッターやってる人、少ないでしょ」。玉音放送を女学校の講堂で聞いたのは12歳のとき。ある年の8月15日は、こんなふうだ。<その夜は電灯を覆っていた黒い布を外し、明るいところで夕食を食べる事が出来ました!>。召集令状の写真を添え、またひと言。<赤紙です。これを発行することで、兵士を必要なだけ集めることが出来ました>。さらに<竹槍(たけやり)、薙刀(なぎなた)の稽古(けいこ)、今考えると笑えます>などと連続投稿。そして呼びかけた。<戦争はあってはなりませぬ!>

 自らを「後期高齢者」ならぬ「高貴香麗者」と呼んだ。サインを求められたら<喜愛>。毎日、こまめに掃除し、お米をおいしく炊き、ぬか床の手入れを怠らない。アイメークも欠かさない。月10万円ちょっとでやりくりした。選挙が近づくと<選挙に行きましょう!>と呼びかけた。街頭演説を食い入るように聞いている姿も見た。亡くなる前日も晩酌のお供の写真がアップされていた。メインはゴーヤーチャンプルー。こう添え書きがあった。<暑過ぎです。冷奴(ひややっこ)もつけました>

 悲惨な戦争を知る世代だからこそ、とことん自由を楽しみ、どこまでも丁寧に生きた女性だった。「やりたいことはすぐ始めなさい!」。公園で会うたび、よく言われた。それは全国のフォロワーの背中を押す言葉でもあったはずだ。8月2日、都内の教会で葬儀があった。参列者はシールを胸に貼っていた。多くは肩書もなく<友人>となっていた。ロンドンから帰国した娘とその家族は涙を浮かべ、頭を下げていた。白いひつぎにはマージャンぱいが入っていた。【鈴木琢磨】