喧嘩の弱い、遊びを知らない「優等生」の話など誰も聞きたがらない…新聞・テレビの「正論」が皆つまらない理由

AI要約

新聞やテレビの語りはつまらない正論になりがちであり、おもしろくない正論は伝わりにくいという指摘がある。

幸せの要素の一つである遊びについて、古代の定義や辞書の解説を通じてその重要性を探る。

遊びは仕事や勉強の合い間に挟まるべきであり、直接的に仕事に役立たず、不思議がられたり心配されるほどの余裕やなぐさみであるべきだという観点を紹介。

なぜ新聞やテレビはつまらないのか。新聞記者で作家の近藤康太郎さんは「新聞やテレビでの語りは、学級委員の正論のようになりやすい。そして、おもしろくない正論は、だれにも伝わらない」という――。

 ※本稿は、近藤康太郎『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。

■幸せに生きるために必須な要素「遊び」

 幸せの大三角の、もう一つの頂点にあるのが、〈遊び〉です。

 遊びとは、辞書を引くと、「なぐさみ」とか「余裕、ゆとり」とあります。「酒色にふけること」なんていうのも出てきます。まさしく「仕事や勉強の合い間」という意味を載せている辞書もありました。

 古語辞典には「神事としての芸能・狩り。行楽。遊宴」という意味も載せています。古代、狩猟は〈遊び〉であり、また神聖なこと、神事だったんですね。わたしも猟師なので、肌感覚でよく分かります。

 白川静『字統』によれば、「遊」はもともと「斿(ユウ)」の字に由来していて、神霊の遊行に関して用いたそうです。転じて、「自在に行動し、移動するもの」を遊びとした。また、「うかれ・遊びは、すべて人間的なものを超える状態をいう語」だとも解説しています。

 辞書というのは、いいものです。自分のたんなる直感が、学問的な正当性を持っていることもある。そのことを教えてくれる。

 この節でいいたいことのすべてです。大事なので、再掲します。

 〈遊び〉とは、「人間的なものを超える状態」である。

■勉強とも仕事とも距離を置いたものでなくてはならない

 〈遊び〉は、〈仕事〉や〈勉強〉の合い間にするものです。言い換えれば、〈仕事〉や〈勉強〉だけしていては不完全です。合い間に〈遊び〉が挟まって、やっと三角形は完成します。

 〈勉強〉は、直接的に〈仕事〉に役立ちます。しかし〈遊び〉は、なぐさみであり、余裕、ゆとりです。

 つまり決定的に大事なのは、〈遊び〉は、直接的に仕事に役立たない。役立ってはいけないということなんです。

 むしろ周りに「なんでそんなことやってんの?」と不思議がられる、場合によっては心配されることでなければいけない。酒色にふける、ということも意味するんですから、常識的にはあまりよろしくないもの、芳しくないものであってもいい。それを〈遊び〉と呼ぶんです。