米も金もない戦後。食糧増産を狙った干拓事業、誰もが希望に燃えていた。今でもコシヒカリが実る光景を見ると胸が一杯になる〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊦〉

AI要約

大洋さんは戦後に実家に帰り、家族と再会した。苦労しながらも建築関連の仕事に就き、干拓事業に携わった。

家族との絆や干拓事業での苦労、ルース台風の被害など、大洋さんの人生の軌跡が語られている。

妻との結婚から始まり、子どもや孫、ひ孫たちとの幸せな家族の歴史が綴られている。

米も金もない戦後。食糧増産を狙った干拓事業、誰もが希望に燃えていた。今でもコシヒカリが実る光景を見ると胸が一杯になる〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊦〉

■川崎大洋さん(97)鹿児島県南さつま市大浦町

(海軍航空隊通信兵㊦より)

 愛媛の宇和島航空隊基地での残務整理が終わり、1945(昭和20)年10月ごろ、大浦町(現・南さつま市大浦町)の実家に帰った。兄も生き残り満州から帰ってきていた。お互い死なずによかったと思った。父は早くに亡くなっていたが、母・好子は存命で「よく帰ってきた。親孝行だ」と泣いて喜んだ。母は今の自分と同じ97歳まで生きた。

 戦後すぐは米も金もなく苦労した。からいもあめを作ってもらい、現在の鹿児島駅周辺に兄と売りに行ったこともあった。

 建築士の資格を持っていた兄はその後、鹿児島市内で働き、建設会社を起業し社長を務めた。自分は、市内の建設会社などを経て47年1月、旧農林省に入庁し、地元の大浦干拓事務所に勤めた。

 大浦干拓は戦時中の42年、国が食糧増産のために着手した事業だ。食糧難で当時の唐仁原等・旧笠沙町長が埋め立てて干拓を造りたいと申し立てた。土地が少ないために、干拓で田を造ろうという考えだった。

 戦後は、食糧増産や引き揚げ者の就労対策などとして工事が再開された。誰もが希望に燃えていた。第1工区(174.5ヘクタール)は51年から入植が始まったが、工事が全て完成したのは62年。50年着工の第2工区(161.8ヘクタール)は、65年9月にできあがり、68年から入植となった。

 大浦干拓事務所では、50人近くいる現場監督の一人だった。建築士の資格を持っていたため、事務所や倉庫、寄宿舎、水路など干拓に関わる建造物の設計をし施工監督まで担った。目が回るように忙しかった。

 51年10月、ルース台風の襲来で干拓地は大きな被害を受けた。前年に建てられた入植者用住宅25戸が吹き飛ばされた。同僚と被害調査をし、壊れた事務所や倉庫、官舎などの改修や立て直しを行った。

 妻・妙子(91)と結婚したのは干拓事業に従事していた55年のことだ。その後、3人の子どもを授かった。現在、孫は5人、ひ孫が3人いる。