事実こそが怪物なのか(7月14日)

AI要約

映画における事実とは何かについて考察。ドキュメンタリー映画と通常の映画で事実の捉え方が異なることを述べる。

作家や映画監督が事実に基づく作品を創作する場面を挙げながら、事実と創作の境界について示唆。

現代社会における事実と事実らしさの関係について考える余地がある。

 事実とは何か。最近、パソコンで映画をよく観[み]るが、「これは事実に基づいた物語である」と、冒頭にテロップが入ることが増えた気がする。それを見るたびに、少しだけ複雑な気分になる。事実に基づくとは、どういうことなのか。

 それらは、いわゆるドキュメンタリー映画ではない。ドキュメンタリー映画にとっての事実と、ふつうの映画にとっての事実とは、同じものではない。たとえば、ある水俣をテーマにした映画をめぐって、ひとつの場面が事実ではない、創作だ、ということで非難を浴びたことがあった。その経緯の一端に触れながら、言葉を探しあぐねた。批判されているのが、創作してでも挿入したほうがいいとはとても思えないシーンであるだけに、気持ちが揺れた。

 あるいは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』は、まちがいなく傑作である。漠然と、それを聞き書きにもとづく小説だと思い込んでいた。だから、それが真っ向から否定されているのを知って、つかの間途方に暮れた。それどころか、『苦海浄土』には、言葉を発することができない水俣病の患者さんに、言葉を語らせている場面があった。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と、石牟礼さんは語っていた。絶句するしかなかった。『苦海浄土』という小説はしかし、これをもって不敬とか虚偽とかの非難の礫[つぶて]を受けることはない。

 柳田国男が『遠野物語』の序文に書きつけていた、「現在の事実」「目前の出来事」といった言葉を思いだす。柳田はここで、事実らしさに徹底してこだわり、事実譚、つまり事実に根ざしたモノガタリを収集しようと試みていた。

 たとえば、毒キノコで絶えた旧家の話があった。事実に根ざしたモノガタリとは思えなかった。しかし、その旧家跡には、いまも荒地のままに広大な敷地が残り、井戸の跡が確認できる。事件の記憶は密[ひそ]かに語り継がれ、まさに「事故物件」として、一世紀半以上にわたって住むことを忌避されてきたのだ。たった一人生き残った七歳の少女についての記憶が、一九九〇年代の聞き書きのなかに蘇[よみがえ]ったことがある。すべては事実譚なのである。

 ところで、是枝裕和監督の『怪物』という映画には考えさせられた。わたしたちはきっと、噂[うわさ]や風聞によって、モンスターが次々に生まれては消えてゆく時代を生かされている。一人の若い教師が、いつしか生徒に理不尽な暴力を振るうモンスターに仕立て上げられ、追いつめられてゆく。暴力なんてありえない、皆が嘘[うそ]を言っていると抗[あらが]う教師に対して、校長が「実際どうだったかはどうでもいいんだよ」と言い放つ場面が心に残った。社会が必要としているのは、事実ではなく、事実らしさを抱いたモノガタリなのだ、それで丸く収まることこそが大切なのだ、ということか。

 事実とは何か、という問いは複雑によじれている。事実そのものが怪物なのかもしれない。

(赤坂憲雄 奥会津ミュージアム館長)