「怨霊になる」と恐れられた後鳥羽上皇、30人の子供を作った後醍醐天皇…為政者の知られざる顔

AI要約

後醍醐天皇は復古主義者でありオカルティストでもあり、真言立川流には男女の関係を重視した考え方が根付いていた。

後鳥羽上皇は倒幕を目論むものの、失敗し配流される。その後、鎌倉幕府に対して厄介な存在とされた。

後鳥羽の怨霊が関東で異変を引き起こすなど、幕朝の関係は後鳥羽の死後も影響を受けていた。

「怨霊になる」と恐れられた後鳥羽上皇、30人の子供を作った後醍醐天皇…為政者の知られざる顔

後醍醐天皇は復古主義者でありオカルティストでもあった。その後醍醐が信奉したのは真言立川流で、立川流の成立には陰陽師も関わっていたので陰と陽、男と女を不可分の関係する考え方で貫かれていた。

後醍醐がはまった真言立川流は、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎臓界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというものであった。当時の常識からは考えにくいものであったため真言宗の正統派からは邪教として忌み嫌われたという。

大の女好きであった後醍醐天皇が夢中になった真言立川流について歴史作家・島崎晋氏が解説する。

※本記事は、『呪術の世界史―神秘の古代から驚愕の現代』より一部を抜粋編集したものです

後鳥羽上皇は1221年の承久の乱における敗者である。最初から倒幕を計画していたわけではなく、当人は3代将軍源実朝の遠隔操作に自信を持っていた。鎌倉に下向させた源仲章を通じて鎌倉幕府とは上手くやっていける。摂関政治から院政、平氏政権、鎌倉幕府と続いた歴史の流れを、院政まで巻き戻すことができると。

しかし、1219年正月17日、肝心の実朝と仲章が同時に暗殺されたことで、後鳥羽の目論見はくも崩れた。これを境に後鳥羽は五壇法や仁王経法を頻繁に催すようになる。

五壇法は五大明王を本尊とした呪法で、中央に不動明王、東壇に降三世明王、南壇に軍荼利明王、西壇に大威徳明王、北壇に金剛夜叉明王の五大尊を連ね、息災や調伏を祈願するもの。天皇や国家の大事の際に行なわれる修法で、明王からして仏法に従わないものを力ずくで帰依させる役目の仏だった。

一方の仁王経法は鎮護国家を祈願して修される秘法。後鳥羽の立場からすれば、この秘法を修すること自体には問題ないが、五壇法とこれの頻度の高さからすれば、その目的はやはり関東調伏の可能性が高く、側近の二位法印尊長を羽黒山の総長吏に、子息の尊快法親王を天台座主とした人事もあわせ考えると、鎌倉幕府に不満を抱く呪術師を総動員しようとしたとも受け取れる。

鎌倉に下向した陰陽師たちがサボタージュに出て、御家人の離反も相次ぐだろうから、軍を関東に下向させるまでもない。後鳥羽はこのように読んでいたようだが、それははなはだ楽観的にすぎた。現実には鎌倉で重用されていた陰陽師たちに寝返る気はなく、御家人たちも分裂するどころか逆に連帯を強め、頼みの比叡山延暦寺からも見放されたことから、承久の乱は一方的な展開で後鳥羽上皇の敗北に終わった。

後鳥羽は責任を問われ、隠岐島へと配流。帰京はおろか、二度と島の外へ出ることなく、1239年2月22日に永眠するが、鎌倉幕府は警戒を緩めなかった。後鳥羽に関しては生前より死後の方が厄介で、後鳥羽の性格からして、怨霊と化し幕府に仇なすは必定と認識していたからである。

事実、平経高という同時代の貴族が残した日記『平戸記』には、北条義時の盟友であった三浦義村と義時の弟時房の相次ぐ死と鎌倉で連続連夜起きている放火事件を後鳥羽の怨霊と結びつけ、「関東の運も衰えてきたのだろうか」「武家滅亡の兆しではなかろうか」などと、怨霊にされる幕府をするような記述が溢れていた。

平経高の期待に反して、鎌倉幕府はそう簡単には滅びなかったが、朝廷の側に天皇という、ひときわ個性の強い人物が登場するに及び、大局が動き始めた。