【エッセイ】女に生まれた男性的な私が、父から「it(それ)」と呼ばれるまで

AI要約

トランスマスキュリン筆者がアルツハイマー病を患った父と向き合う過程で、父が彼を男性として認識し始め、受け入れていく様子を描いた愛に満ちた物語。

子供時代から性別にとらわれず成長してきた筆者と父の関係、また父の認知症が進行する中で彼の受容について触れられている。

ジェンダーの境界を越え、父が筆者を生き生きとした人として受け入れ、認識する姿が示されている。

【エッセイ】女に生まれた男性的な私が、父から「it(それ)」と呼ばれるまで

女性の体を持って生まれたトランスマスキュリン(男性らしさや男性の特徴を持つと自認する人)の筆者は、娘として、息子として、そして一人の子供として、アルツハイマー病を患った大好きな父と向き合う。

この記事は、愛をテーマにした米紙「ニューヨーク・タイムズ」の人気コラム「モダン・ラブ」の全訳です。読者が寄稿した物語を、毎週日曜日に独占翻訳でお届けしています。

アルツハイマー病であると判明してから1年ほど経った頃、父とスターバックスに行ったとき、彼は何かを審判する目で私を上から下まで見ると、バリスタにこう言った。

「こっちの若い──えー、ゴホン──男性は、ラテで」

冗談を言っているのかよくわからないまま、私は笑った。その瞬間まで、私はいつだって彼の娘だった。

たしかに私は典型的な娘ではなかっただろう。成長するなか、私はおてんば娘、あるいは後にラリー・デヴィッドが「プレ・ゲイ」と呼ぶような子だった。切りっぱなしの短髪で、兄のお下がりを着ていた。人はよく私のことを弟だと思ったものだ。

大人になってからも、私はシスジェンダーの男性と間違われ続けた。「サー」と呼びかけられたことは数え切れないほどあり、正直なところ、それを気にしたことはない。胸部の手術を受け、低用量テストステロンを服用しはじめるその前から、私は男性として見られることを良しとしていた。

4年前に父が私を「若い男性」と呼んだこと、それは冗談ではなかったとすぐ明らかになった。スターバックスでのあの一瞬以来、父は私に対して「彼」という代名詞しか使わなくなり、私と兄をまとめて「息子」と呼ぶまでになった。

これはほろ苦いものだ。父はつまるところ、私が誰なのか忘れていたわけだけど、私の性別に対する彼の正直な評価には肯定的な響きがある。その都度に新鮮な目で私を観察し、新たに受け止めてくれているようだった。逆説的だけど、私は見られ、認識されているように感じた。

父のテディは、いつも私のことを「よく見てくれている」と感じていた。

家族の言うところによると、彼は私が生まれたそのときから男の子だと確信していたらしい。体重4500グラムの私を見た瞬間、彼はすぐに「俺たちの小さなフットボール選手だ!」と思い、部屋にいた全員に「男の子だ!」と叫んだ(すぐにそうではないと医師が伝えたが)。

たしかに、たくましい新生児を男の子に違いないと思い込むのは、少し性差別的だったかもしれない。だけど父は、子宮から出てきたばかりの私から、トランスマスキュリンな空気を感じ取っていたのだと思いたい。

小さい頃、父と私は親友だった。父と同じように、そして兄とは違い、私は体育会系だった。公園でのキャッチボールに何時間も付き合ってくれたし、いろいろなスポーツ観戦に連れて行ってくれたものだ。

7歳で近所の少年ホッケーリーグに参加することを決めたときも、父は応援してくれた。裁判官である彼は時に、私の試合に間に合うようにと早めに閉廷することさえあった。

トランスフォーマーなどのいわゆる「男の子向けのおもちゃ」だって買ってくれたし、私がボロボロのジーンズやTシャツを着ていても、平然としていた。

両親は二人とも進歩的だった。だけど性別不合の子供をどう育てるかについて、1980年代当時は(こんにちの基準に比べて)本当の理解も道筋もなかったことを考えると、彼らは私に「女の子」のものを押し付けないという素晴らしい子育てをしてくれた。

19歳で初めてゲイであることをカミングアウトしたとき、父は不安そうだった。だけど私は、彼からサポートしか感じたことがない。恋人がいることをついに打ち明けたときには、彼はただひと言「彼女の名前は?」とだけ聞いた。

70代後半から80代前半の父をアルツハイマー病に奪われ、辛かったことがたくさんある。自転車やテニス、ドライブ、パートナーであるバーバラとの旅行──大好きだったそうしたことをすべてできなくなり、世界のことがわからなくなることへの父の戸惑いと苛立ちを目の当たりにして、胸が張り裂けそうだった。

ひとつだけ明るい兆しがあるとすれば、それは彼が私を「息子」と呼ぶたび、大きな喜びをもらったことだ。

3年前に「they/them」という代名詞を使いはじめたとき、一部の友人や家族は適応するのに時間が必要だったが、父は不要だった。

性別にとらわれないスペクトラム上で生きることの意味について、細かいことはわからないままかもしれない。だけどアルツハイマー病を患うなか、父はますます男性的になっていく私の存在を、まるごと受け入れてくれた。

父はすぐに適応して、私を指し「彼がこう言った」、「彼がああ言った」、「彼は何を話しているの?」と言うことに慣れたのだった。

昨年の秋、父に直接尋ねたことがある。「私を男として見る? 女として見る?」

父は私をじっくり見てから、手で円を描くような仕草をして「両方だよ」と答えた。

「きみのことは、そうだね。いきいきとした人、として見ている」

私は笑った。これ以上の言葉はない。男性的か女性的かを越えて、誰もがジェンダーをそう捉えることができればいいのに。みんな動的で、鮮やかで、活気に満ちていて、いきいきしている。