【後編】認知症の母を看取って…稲垣えみ子さん 老後、自分をみじめにしない『シンプル生活』のススメ

AI要約

元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんは、東日本大震災を機に節電生活を始め、50歳で退社。物を手放したシンプルな生き方を実践し、人生後半を豊かに生きることの重要性を感じた。

稲垣さんは、母親が認知症になったことをきっかけに老いと向き合い始め、自身の人生の意味を見つめ直すようになった。

母との関わりの中で、老後の幸せや生き方について考えるようになった稲垣さんは、物質的な豊かさよりも人とのつながりや日常の喜びを大切にすることを学んだ。

【後編】認知症の母を看取って…稲垣えみ子さん 老後、自分をみじめにしない『シンプル生活』のススメ

アフロヘアで知られる元朝日新聞記者の稲垣えみ子さん。東日本大震災を機に節電生活を始め、50歳で退社。認知症の母との暮らしの中で、物を手放したシンプルな生き方は人生後半をよりよく生きるためにも大切なことと実感したと言います。

――冷蔵庫を手放し、自炊生活を始めた稲垣さん。ベランダ菜園は「市販のサラダミックスの種を育てると何度も収穫できます。春夏は育ちがいいけれど味が薄く、秋冬はゆっくり育って味がいい。日々小さな発見があります」

そんな稲垣さんが生き方を見直す大きなきっかけになったもう一つが、、母親が認知症になり、「老い」の問題に直面したことだと話します。

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母は亡くなる3年前から認知症を患いました。父と同居する母のもとに私は週1回通っていて、行くたびに「前回できていたことができなくなっている」という現実を目の当たりにしました。そのとき、老いていくって大変なことなんだなと初めて実感したわけです。

たとえ認知症にならないとしても、若い頃は当たり前にできていたことがだんだんできなくなっていくんだと。

それまで老いに対して完全に無防備で、人生を上っていくことしか考えていなかったけれど、人生の「下り方」を真剣に考え、価値観を変えていかなきゃいけないと思うようになりました。そのために定年を待つのではなく、自分で会社を辞めて人生を切り替えていこうと決断したわけです。

――退職後、築50年以上のワンルームに引っ越し、大量の物を手放して暮らしを小さくした稲垣さん(詳細は前編で>>)。一方で認知症が進んでいく母と時間を過ごし、「老後の幸せ」について考えるようになったといいます。 *** 高度成長時代に専業主婦だった母は、まさに上を向いて暮らしを豊かにしようとがんばってきた人でした。母にとって、家族のために毎日凝った料理を作り、大量に洗濯をして、家の中をきれいに整えることは、当たり前の日常であり、プライドでもあったのだと思います。

認知症と診断された頃、実家に泊まって母の横で寝ていたら「お母さん、これからどうやって生きていったらいいかな? 何もできなくなっていくんでしょう?」と聞かれたことがありました。

私はなんと答えたらいいかわからず、「何もできなくなるわけじゃないよ。そんな大変なことをしなくても、朝起きて、ごはんを食べて、散歩して、そういうことでいいんじゃないの」と言ったんですが、母は全然納得していなくて……。

きっと母は完璧な家事を続けたかったのだと思います。でも、それはあまりにもハードルが高過ぎた。ただ敗北感でいっぱいの顔を見るのは切なかったですね。