「水をくれー水をくれー」5歳の記憶を“描き続ける”女性 焼けただれた人々が求めた湧き水 長崎 被爆から79年
長崎原爆の記憶を未来に伝えるNO WARプロジェクト・つなぐつながる。堤寛子さんが5歳の時に目撃した原爆の恐怖や被爆者の悲劇を絵に描き続ける姿を紹介。
堤寛子さんは被爆体験を通して、岩穴での避難や被爆した家族の苦しみを語り、戦争の無意味さを訴える。
平和祈念式典での被爆者への水の捧げ方、岩穴から流れ出る湧き水が被爆者たちにとっていかに重要だったかも紹介。
戦争の記憶を未来につなぐ「NO WAR プロジェクト・つなぐつながる」。被爆から79年。5歳の時に目撃した「長崎の様子」を後世に残そうと、絵を描き続けている女性を取材しました。
長崎原爆の爆心地からおよそ1.2キロの場所にある穴弘法奥之院・霊泉寺。当時、逃げ場と水を求めて多くの被爆者が押し寄せ、そのまま息絶えた13人は寺に埋葬されました。
今月9日の平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げられた水には、この寺から運ばれた湧き水も含まれていました。
住職 堤 祐心さん
「水を平和への道筋になる形でできればと思い、お参りさせていただきました」
寺の本堂には原爆の記憶を後世に残そうと、あの日が描かれた18枚の水彩画が展示されています。
堤 寛子さん
「この時の光景は忘れられませんね」
絵を描いた被爆者の堤寛子さん(84)です。寺の長女だった堤さんは5歳の時、寺の奥の岩穴で原爆に遭いました。
堤 寛子さん
「灰色みたいな色。すごい爆風、すごかったですよ、勢いが。爆風からちょっと避けたため助かった。(岩穴を)避難場所にしてたから、布団が置いてあった、それをかぶって。時間がどれくらいしたか分からんけど、かぶったままで、怖かったからそのままいた」
被爆した時、堤さんがいた実際の岩穴です。堤さんのほか、母や弟は無事でしたが、自宅の梁の下敷きとなった祖母のテイさんは亡くなりました。
堤 寛子さん
「おばあちゃん子だったから辛かった、本当に辛かった」
しばらくして岩穴から外へ出ると、信じられない光景が広がっていました。
堤 寛子さん
「金比羅山が真っ赤に燃えるんじゃなくて、焼けてた。炎なんか見えてない、真っ赤に焼けてる。それが強烈でしたね」
岩穴に流れる湧き水。当時、けがや病気が治ると信じられていました。
あの日、原爆の熱線で体を焼かれ、焼けただれた人々が求めたのは、この湧き水でした。
堤 寛子さん
「水をくれー、水をくれーと言って、さまよっている人たちが這いながらきていた。女の方でしたけど、ここ(胸)が真っ赤で、ピンクみたいな赤。焼けただれたのがひどかった」
戦後、寺に建てられた平和観音。堤さんは絵筆をとって、原爆で亡くなった人々の霊をとむらいます。
堤 寛子さん
「戦争はダメ、戦うことはダメ、お互いに許しあわないと」