肱川の氾濫で両親亡くした女性「命の大切さを身をもって気づかせてくれた」、4か月後に生まれた孫へ思い語る

AI要約

愛媛県の肱川氾濫で両親を失った椿本紀代さんが、6年後に災害の記憶を伝えたいという思いを強く感じ、孫に伝える決意をする。

椿本さんの両親は氾濫で亡くなり、彼女は遺体を見ても理解できず、悲しみと悔しさに心を押し潰される。

両親が家族として大切に思ってくれた椿本さんが、孫と再び顔を合わせる約束が果たせないまま最期を迎える姿が描かれる。

 2018年の西日本豪雨は6日で6年となった。土砂災害や浸水などで300人超(災害関連死を含む)が亡くなり、被害が集中した広島、岡山両県の各地で追悼行事が催された。参列者は犠牲者の冥福を祈った。河川氾濫が起きた愛媛県では7日に慰霊行事などが行われる。両親を亡くした松山市の女性はあの日に思いをはせ、ある決意をした。

 愛媛県南部を流れる肱川の氾濫で両親を亡くした松山市の椿本紀代さん(55)は、6年の時を経て「災害の記憶を伝えたい」と強く思うようになった。「直接被災しなかった自分が語ってもいいのか」と引け目を感じていたが、水害の責任を問う訴訟に参加し、豪雨の4か月後に生まれた孫(5)の成長を見守るうちに心境が変化した。「あの日何があったのかを伝え、自分の身を守るために生かしてほしい」。来春、小学生になる孫に話をしてみるつもりだ。

 18年7月7日朝、肱川上流の野村ダム(愛媛県西予市)では、数日前からの大雨で水位が急上昇していた。満水に近づき、国は流れ込む雨水とほぼ同量を流す緊急放流を実施。下流で大規模な氾濫が発生し、椿本さんの父・大森仲男さん(当時82歳)と母・勝子さん(同74歳)ら西予市民5人が逃げ遅れて亡くなった。

 椿本さんは病院で両親の遺体と対面したが、何が起きたのか理解できなかった。「なぜ雨で人が亡くなるの?」。突然、命を奪われたショックで涙がこぼれた。

 濁流が押し寄せた実家には、数日分の着替えを詰めた袋が残されていた。「避難しようとしたのに、間に合わなかったのでしょう」。思い出すと、悔しさで胸がいっぱいになる。

 穏やかな人柄の仲男さんは定年まで建設会社に勤め、社交的な勝子さんは総菜店で働き、家計を支えた。椿本さんは県外の高校への進学を機に親元を離れたが、体調や精神面を気遣ってくれて、ミカンやブドウの仕送りがよく届いた。

 両親と再び頻繁に顔を合わせるようになったのは、椿本さんが県内に戻り、子育てが落ち着いた40歳代になってから。「元気にしよった?」「家族は元気か?」といつも気にかけてくれた。6月下旬、「ひ孫ができるよ」と報告しに行くと、うれしそうに話していた。「顔がみたいから、生まれたら連れてきんさい」。直接会って話をしたのは、それが最後となった。