他人を執拗に批難する人は、「叱ることの快感」に浸っている

AI要約

他人を叱る行為は「脳の報酬」になっているという。厳しさと叱ることを切り分け、主体的に苦しみを乗り越えることが成長につながると述べられている。

日本に根強くある「苦痛神話」について異議が唱えられ、自発的な我慢と他者から強要された我慢の違いが強調されている。

一方的な苦しみを我慢することで生じる「諦め」や「無力感」は成長にはつながらず、目的のための自発的な我慢にこそ学びや成長があると考えられている。

他人を執拗に批難する人は、「叱ることの快感」に浸っている

他人を叱る行為は「相手のため」と考えられがちだが、実は叱ることは「脳の報酬」になっているという。臨床心理士の村中直人氏と、株式会社コルク代表取締役社長の佐渡島庸平氏による、自分では気づきにくい「叱る」ことの心理についての対話を、書籍『「叱れば人は育つ」は幻想』から紹介する。

※本稿は、村中直人著『「叱れば人は育つ」は幻想』(PHP研究所)から一部を抜粋・編集したものです。

【佐渡島】僕はトップレベルの作品を生み出す作家を育てたいので、「そのためには厳しさが必要だ。そのハードルを僕が下げてはいけない」と考えていました。

だから、僕が厳しくすることによって相手がネガティブな感情をもつことは仕方がないことだ、と捉えていたわけです。ところが、村中さんの本にはこう書かれていた。

「叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。『厳しさ』の本来的な意味とは、『妥協をしない』ことや、『要求水準が高い』ことだからです。要求水準を高く保つことは、相手にネガティブな感情を与えなくても可能です。『苦しみを与える』も同じことで、厳しくする=『叱る』『苦しみを与える』ではないのです」(『〈叱る依存〉がとまらない』P.161-162)

この言葉がとても腑に落ちたんです。人が成長するのはどういうときかについても、提示されていました。

「苦しみが成長につながるのはそれが他者から与えられたときではなく、報酬系回路がオンになる『冒険モード』において、主体的、自律的に苦しみを乗り越える時です。周囲の人間ができることは、本人が『やりたい』『欲しい』と感じる目標を見つけるサポートをすること。そして目標を目指す『冒険』を成功させるための武器を与え、道筋を示すことです。繰り返しますが、『叱る』がなくても厳しい指導は可能です」(同P.162)

激しく同意して、「よし、ならばこっちの道を探究しよう」と考えるようになったんです。

【村中】ありがとうございます。いま言っていただいたのは、私が「苦痛神話」と呼んでいるものです。日本には、「後々のために人は苦しみを体験しなくてはいけない」とか「苦痛を乗り越えることで強く成長するんだ」みたいな考え方が非常に根強くありますよね。私はそこに異議を唱えたかったんです。

【佐渡島】たしかに、部活動の「練習の苦しさに耐えられなければ、試合には勝てない」みたいな考え方はその典型ですよね。勉強も、つまらない詰め込み学習に耐えて試験を突破するのが勉強であるかのような考え方が見られます。

【村中】そうそう、楽しく学んでいると「そんなのは勉強じゃない」と言われてしまう。苦しい状況を我慢するといっても、自分の意思で自発的に苦しさに耐えようとする心理と、誰かから強制的に与えられた苦しさに耐えようとする心理とは、まったく別物です。我慢して、苦痛に耐えることのすべてが成長につながるわけではないのです。

学びを促進したり、成長を促したりする効果が高いのは、自分の意思で決断し、やりたいことのためにしていると感じられる我慢であって、他者から強要された我慢をしているときではない。「目的のための自発的な我慢」と「他者から強要された我慢」、そこをきちんと分離して考えなくてはいけない。

一方的に与えられた苦しみを我慢することで生まれるのは、「諦め」や「無力感」です。「忍耐力」や「困難に打ち勝とうとするエネルギー」にはならない。そのことを、世の中にもっと広く知ってもらいたかったんです。