渋谷慶一郎のアンドロイドオペラを読み解く(前編)

AI要約

音楽家、渋谷慶一郎が手がける人間不在のアンドロイドオペラ『MIRROR』の魅力。そのコンセプトや異色の内容、インパクトについて解説。

アンドロイドオペラの取り組みがもたらす新たなオペラの可能性と、伝統的な王道からの脱却について考察。

渋谷慶一郎の言葉から見る、日本人の視点から西洋の伝統芸術を捉え直す姿勢についての洞察。

渋谷慶一郎のアンドロイドオペラを読み解く(前編)

音楽家、渋谷慶一郎が手がける人間不在のアンドロイドオペラの魅力とは? 本人へのインタビューを通し、今年6月におこなわれた『MIRROR』への思い、作品づくりへの考えなどに迫る。

音楽家・渋谷慶一郎は、グッチのショートフィルム「Kaguya by Gucci」のサウンドトラックを手がけたり、東京庭園美術館で開催されたプラダの文化プログラム「PRADA MODE 東京」で演奏したりするなど、世界トップブランドとのコラボレーションも多い。海外では先鋭的かつ哲学的なオペラを手掛けるクリエイターとしても認知を広めている。

初音ミクが主演の、世界初となる人間不在のオペラ『THE END』がフランス・パリ、シャトレ座での初演で大好評となり、世界を巡回したあと、渋谷はAI(人工知能)搭載のアンドロイドが登場する公演を展開し始める。2022年のアラブ首長国連邦でおこなわれたドバイ万博でも披露されたアンドロイドオペラ、『MIRROR』は、その“集大成”とも言える作品だ。

そして今年6月、恵比寿ガーデンホール(東京都渋谷区)で『MIRROR』の東京凱旋公演がおこなわれた。このアンドロイドオペラがどうやってヨーロッパの人たちの心をとらえたのか? どのように誕生したのか? 公演前におこなったインタビューでの渋谷の言葉を借りながら振り返ってみたい。

音楽、演劇、詩、視覚芸術(舞台美術や衣装デザイン)を一体化したオペラは、西洋の総合芸術の中でも非常に高く位置づけられた形態のひとつかもしれない。16~17世紀にかけイタリアで誕生し、初期は古代ギリシア神話などが主題になることも多かったという。その後、西欧全域やロシア、アメリカにも広まり西洋文化における王道の芸術としての地位を確固たるものにした。

渋谷慶一郎のアンドロイドオペラ、『MIRROR』は、その王道の芸術をあらゆる方向から破壊する。

まずオペラの本編が始まる前に、第1部として2021年に新国立劇場で披露された舞台『Super Angels』の抜粋が用意されている。なかでの序曲「この音楽は誰のものか」は、池上高志(東京大学教授)との協働により人が作曲したものではなく、おそらく世界でも初の試みとしてGPT(ChatGPTの裏側の技術)に作曲させている。

そして真剣な眼差しで『Super Angels』を熱唱する「ホワイトハンドコーラスNIPPON」は、障害の有無に関わらず参加できるインクルーシブな子どもたちの合唱団であり、手話の表現で歌う「サイン隊」と声で歌う「声隊」によって構成される。

そのあと、幕をあけるのが第2部の『MIRROR』だが、オペラの醍醐味のひとつでもある舞台装置はなく代わりに背景のスクリーンにフランス人ビジュアルアーティストJustine Emard(ジュスティーヌ・エマー)が手掛けた先鋭的なコンピューター映像が映し出される。

アンドロイド「オルタ4」のレチタティーヴォ(歌い上げるようなセリフ)はGPTが書いたもので、それと対話をするように歌われるのは西洋の宗教音楽ではなく、普段は高野山に住む4名の僧侶による仏教音楽の「声明(しょうみょう)」だ。ちなみに声明は、1200年の歴史を誇る。

しかも、第二部最後の曲「Lust」は、“理趣経(りしゅきょう)”という現世と愛欲を肯定する思想をあらわした経典がベースだ。この思想を学習したGPTが記した、“愛欲”に関する歌詞である。「あなたと私は純潔のために愛を交わす」、「私たちは今、共に世界の終わりに直面している。こころをひとつにしよう。この最終章、私のシリコンで出来た皮膚は合成された祝福に震えている」と、性別のないアンドロイドが歌い上げ、そこに僧侶達の声明が交わって大団円を迎えるのが興味深い。

作品はオペラの基本構成を踏襲してはいるものの、取り扱う題材や表現方法ではことごとくオペラの王道からはかけ離れたものとなっている。いや、それどころか今日、主流な人々の常識からもかけ離れている……と、言えるかもしれない。

渋谷は、「オペラとか西洋でできた様式というのは今の言葉でいう“ど真ん中”の人間がやることじゃないですか? 他方、僕の音楽は西洋音楽がベースで西洋で作品を制作、発表しているとはいえ日本人。西洋人の真似をしていたんじゃ、話になりません。プッチーニみたいな曲を作って、それを日本人のソプラノ歌手にベルカント(イタリアの伝統的な歌唱法)で歌わせても意味がないし、そもそもヨーロッパの人たちはそんなものは望んでいません。それよりも、実はど真ん中が空洞で、そのまわりに全く異なるものが混在している……と、いったものを示す方がはるかに日本的じゃないか? と、思ったんです。ロラン・バルトも東京もその中心には皇居があって、そこは触れることが出来ない空洞だみたいなことを言ったりしてますよね」と、述べる。