風船爆弾から唯一の空襲まで、実は第2次大戦で米国本土も攻撃を受けていた、犠牲者も

AI要約

1944年11月から1945年4月にかけて、日本軍が気球爆弾を米国西部に放った。爆弾は森林火災を引き起こす目的で高層大気を横断した。

1945年5月5日、オレゴン州で風船爆弾が爆発し、妊婦1人と子ども5人が犠牲になる事故が発生した。この事故は米国本土で唯一の攻撃による死傷者を出した事件となった。

1942年から6月にかけて、ドイツのUボートが大西洋の沿岸で米国やカナダの船舶を攻撃し、100隻以上の船を沈めた。米国は対応策を持たず、軽飛行機の応急措置で撃退を試みた。

風船爆弾から唯一の空襲まで、実は第2次大戦で米国本土も攻撃を受けていた、犠牲者も

 第2次世界大戦中、戦闘の大部分は米国の外で行われた。壊滅的な被害を受けたのは多くのヨーロッパ諸国と太平洋諸国だった。しかし、あまり知られていないが、日本とナチス・ドイツが米国本土を恐怖に陥れたこともある。

 風船爆弾、潜伏するUボート、ロサンゼルスの夜空に現れた謎の飛行物体などは米国本土のもろさを浮き彫りにし、防衛策の強化につながった。また、これらの出来事は米国民の恐怖と疑念を解き放ち、特に日系米国人への敵意が高まり、何千もの罪のない人々が収容所に送られることになった。ここでは、国外で戦争が繰り広げられている間、米国本土が敵の攻撃を受けた有名な例をいくつか紹介しよう。

 1944年11月から1945年4月にかけて、日本軍は気球に爆弾を積んだ風船爆弾を約9000個放った。高層大気のジェット気流に乗せて太平洋を横断し、米国西部で森林火災を引き起こすことが狙いだった。

 風船爆弾は、高度が低下すると気圧の変化を感知する装置が作動し、砂袋が落とされて気球が軽くなり、再び浮上するという仕組みで高度を保っていた。これが繰り返され、最終的に爆弾だけが残るようになっていた。

 記録を見る限り、米国で回収されたのはわずか300個だが、そのうちいくつかはワイオミング州、モンタナ州などの内陸部まで到達した。

 悲劇的な結果をもたらしたケースもある。1945年5月5日、オレゴン州ブライ近郊で風船爆弾が爆発し、教会のピクニックに参加していた妊婦1人と子ども5人が死亡した。第2次世界大戦中、敵の攻撃によって生じた米国本土唯一の犠牲者だ。

 パニックをあおり、戦争遂行能力をそぐことが日本軍の狙いだったが、米国政府は混乱を恐れ、敵の策略を表沙汰にしなかった。犠牲者を出したコミュニティーの人々でさえ、この悲惨な出来事の後、沈黙を強いられた。

 ドイツのUボートは「潜水艇」を意味するドイツ語Unterseebootの略で、1942年1月から6月にかけて大西洋の米国、カナダ沿岸に潜伏し、米国や連合軍の船舶を攻撃した。最初の3カ月で、Uボートは100隻以上の船を沈没させた。本土を直接攻撃はしなかったものの、陸から見える船も含まれていた。ノースカロライナ州だけで、Uボートは商船78隻を撃沈し、船員1200人が命を落とした。

 米海軍はこの脅威への備えができていなかった。そして、Uボートを米国沿岸から追い払う手段を持たないにもかかわらず、武装していない民間の軽飛行機が沖合をパトロールせざるを得ないほど絶望的な状況に陥った。

 その後、一部の軽飛行機が応急措置として爆弾を搭載し、Uボート2隻の撃沈に成功した。米国の商船が海と空からの護衛を伴って大西洋を横断し始めると、Uボートの攻撃はついに減少した。