日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎(2)

AI要約

孫基禎が1936年にベルリンで韓国人として活躍したが、その事実は秘密ではない。彼の競技や人物像には忘却と悲哀がまとわりついており、その情報の歪曲も存在する。

多くの韓国文献が、孫基禎が苛酷な暑さの中でマラソン競技を行ったと記録しているが、公式記録と異なる情報も存在する。

孫基禎が走る際に水を一切飲まなかったというイメージは、古い常識と写真資料との矛盾がある。彼の研究や分析が、歴史的側面から抜け出して科学的な視点で行われるべきである。

残念なことだが残っている資料は1936年にベルリンで孫基禎が韓国人という事実は秘密ではないということを示してくれる。陸上専門紙は孫基禎が京城(現ソウル)の養正高等普通学校出身という日本の関係者の話を引用して報道した。日本人を意識してのことかもしれないが、孫基禎は自身に対して積極的に説明しない。選手村情報誌は孫基禎が「とても寡黙で10分に一度やっと話をするほどだった。彼は故郷であるKoreaで訓練した内容について話した」と書いた。

このように鮮明な断層の向かい側に忘却が座を占めている。五輪精神に照らして最も高貴な価値かもしれない勝利者に対する尊重と崇拝を見つけることができないのだ。孫基禎は世界最高記録保有者としてベルリンに行き、五輪新記録打ち立てて金メダルを獲得した。彼が立てた記録の価値、世界最高のマラソンランナーが受けて当然な名誉を「植民地青年の悲哀」と「日本はまだ孫基禎が日本人であるかのように紹介している」という韓国人の憤怒の向かい側のどこから見つけるべきか。優れたマラソンランナー孫基禎の実際の競技内容と関連した情報すら悲哀と憤怒の次元を抜け出すことができない。その結果、時には伝説が、時には確認できない誇張と歪曲が事実かのように流通する。例を挙げてみよう。

多くの韓国国内文献はマラソン競技が開かれた1936年8月9日にベルリンが「30度を超える高温」に湿度が高かったと記録した。「北海から熱風が吹いてきた」という記述もみられる。ベルリン五輪の公式記録は違う。気温は競技が始まった午後3時ごろに22.8度、終わった時は21.0度であり、空は晴れ大気は乾燥していた。30度は真夏の暑さを象徴する温度だ。マラソン競技が苛酷な暑さの中で開かれたという前提は優勝者孫基禎の英雄イメージを強化し彼が収めた勝利の意味を固めるのに寄与しただろう。

◇サインは必ずハングルで書き韓半島描く

孫基禎は走る間に水を全く飲まなかったという。彼は自叙伝に「ビスマルクの丘を上がると看護婦が水を勧め、口を一度ゆすいで吐いた」と記録した。しかし写真資料は孫基禎が少なくとも2地点で水を供給されたことを示している。まず看護師が渡したコップを口に当てる写真が1枚ある。この写真は孫基禎の自叙伝にも掲載された。五輪公式記録645ページには日本人関係者が渡した水を飲む(ような)写真がある。39キロメートル地点で撮影されたという。水を飲まずに42.195キロメートルを走った超人的意志を強調するにはマラソン中に水を飲んではならないという古い常識も作用した。

筆者は何年か前に尊敬する仲間と話しながら孫基禎を「歴史的意味」の枠組みから抜け出し自然科学の側面から研究する価値がある点に共感した。こうした考えを交わした。孫基禎が走る姿はレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』など動画が存在する。1937年5月に孫基禎がセブランスで心拍数、血圧、肺活量、心臓構造などを測定した身体検査記録が残っている。AIをはじめとする最近の技術を使えば孫基禎の体格と走法などを分析し、彼が到達できた記録の最大値、現代マラソンに適用すべき特長点を抽出してみることはできないだろうか。

孫基禎という名前は彼が死去した後も忘却と悲哀、憤怒という名前で世界の片隅に残っている。ある所で忘却の深淵は1936年8月よりいまがより深い。筆者は4年前の夏休みにドイツのリューデスハイムを訪問し、路地にあるカフェに入って昼食を食べた。そこで長く土産物店をやってきた韓国僑民から聞いた逸話だ。1981年10月に孫基禎がその店に立ち寄ったが、だれも気付かなかった。同行した僑民1人がドイツ人に尋ねた。

「1936年のベルリン五輪のマラソンでだれが優勝したか知っているか」。

ひとりが叫んだ。

「日本人(Japaner)!」。

僑民は「韓国人」と正した後、「その方がここに来られた」と紹介した。雷のような満場の拍手が起こった。憂鬱なエピソードの最後が拍手で締めくくられたのはそれでも幸いなことだ。

ホ・ジンソク/韓国体育大学教授