日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎(1)

AI要約

男子マラソンで金メダルを獲得した孫基禎の物語。

孫基禎の人生と韓国人としての誇り。

日本との関係性、孫基禎の運命について。

パリ五輪の男子マラソンは10日午後にスタートする。88年前は1日前にスタートした。1936年ベルリン五輪。韓国人のだれもが知っているように、植民地朝鮮の青年孫基禎(ソン・ギジョン)がトップでオリンピアシュタディオンのゴールを通過した。2時間29分19秒、五輪最高記録だった。最後の区間はスプリンターのような途轍もないスピードで疾走した。だが青年の表情は明るくなかった。

◇当時の気温30度? 公式記録は21度

オリンピアシュタディオンの西側にある聖火台の後壁には種目別の優勝者の名前が刻まれている。「MARATHONLAUF 42195m SON JAPAN」。1970年8月15日、当時国会議員だった朴永禄(パク・ヨンロク)氏がはしごをかけて上り、「JAPAN」を削り「KOREA」に変えた。5時間かかったという。だが国際オリンピック委員会(IOC)と西ドイツ政府はすぐ「JAPAN」に直した。今後も孫基禎の国籍を韓国に変えるのは容易ではないだろう。

2012年7月、筆者はベルリンを訪問し五輪のマラソン区間を調査しスポーツ博物館とオリンピアシュタディオンを訪問した。スポーツ博物館の学芸員の助けを受けて検索した資料を分析し、「韓国体育史学会誌」に論文を載せた。内容は少なくない。ただ7月19日にスポーツ博物館のドアを開けて入った時の驚きを覚えている。

ドアを開けるとすぐ孫基禎の写真が見えた。ジェシー・オーエンスの写真はその後ろにあった。学芸員は写真説明を示した。「Kee Chung Sohn(Kitei Son)」。 学芸員は「われわれは1989年から彼の名前を韓国式に表記してきた。国籍は変えられない」とした。筆者は孫基禎という名前が巨大な断層の真ん中にあることを改めて感じた。韓国と日本、勝利と悲哀。

「孫基禎は韓国人初の五輪金メダリストだ。彼は1936年のベルリン五輪のマラソンで2時間30分の壁を突破し五輪新記録を樹立して金メダルを取った。そして日本帝国主義の強占統治の下に置かれた同胞の鬱憤をぬぐう一方民族意識を改めて鼓吹させた」。

私たちはここまで知っている。外から見る視角も大きく異ならない。外国の研究者のうち相当数は1988年のソウル五輪を契機に孫基禎に注目した。2004年に論文「孫基禎とスピリドン・ルイス、1936年ベルリン五輪マラソンの政治的局面」を発表したカルル・レナルツが代表的だ。彼は1936年にマラソン表彰台で頭を下げた若い勝利者と1988年ソウル五輪開会式で白髪の高齢者が聖火を持って踊るように走る場面を劇的に対比させた。

孫基禎の名前はいつも鮮明な断層の中に姿を現わす。その淵源は長い。孫基禎が優勝した後、日本の読売新聞は8月10日に号外を発行し臨時特派員として派遣した西條八十の詩を掲載する。題名は「我等の英雄!弾丸の如く躍り出た小男」だ。このように終わる。

「誰れか、今日のこの勝利を期待しただろう/踊れ!起て!歌へ!日本人!/日本は見せた/けふ明瞭り(はっきり)みせた/この小男孫のなかに/世界を指導する、躍進日本の勇ましい現在の姿を」。

半島では詩人の沈熏(シム・フン)が8月11日付の朝鮮中央日報に「おぉ、朝鮮の男児よ!-マラソンに優勝した孫・南の両君に」を載せた。詩人は絶叫する。

「おぉ、私は叫びたい! マイクを握って/全世界の人類に向かって叫びたい!/これでも君たちはわれわれを弱い民族だと呼ぶのか!」

このように鮮明な対照は孫基禎の運命であろう。そのため彼の頭の中の真ん中を民族の境界と運命の等高線が横切る。孫基禎はベルリンでだれも自身が韓国人であることを知らないだろうと懸念したようだ。そこで機会があるたびに自身が韓国人であることを示そうと努力しただろう。だれかサインをくれと言えばハングルで名前を書き韓半島(朝鮮半島)の地図を描き、サインとともにKOREANと書く形で。