「絶対に恨んだりしない」涙する娘が父と交わした“誓約書”…ゴルフ笹生優花の原点「この書面にサインしたら、練習時間は親子じゃないよ」

AI要約

笹生優花は苦難を乗り越え、ゴルフのトップ選手となるまでの軌跡が描かれている。

父との関係や幼少期の思い出、プロゴルファーを目指す姿勢が綴られている。

フィリピンと日本を行き来しながら、夢への情熱と努力を続ける笹生優花の物語。

「絶対に恨んだりしない」涙する娘が父と交わした“誓約書”…ゴルフ笹生優花の原点「この書面にサインしたら、練習時間は親子じゃないよ」

 松山英樹の銅メダルに沸いたゴルフ界、続いて注目は女子ゴルフに向けられる。キープレイヤーは自身2度目のオリンピックとなる笹生優花だ。東京大会はフィリピン代表として出場したが、大会後に日本国籍を取得し、今大会は日の丸を背負う。23歳にして2度も全米女子オープンを制した逸材は、ゴルフ界初の金メダルをもたらすことができるだろうか。父・正和さんを取材した。【NumberWebインタビュー全3回の2回目】

 笹生優花の全米女子オープン2度目の優勝は、22歳11カ月13日で史上最年少記録となった。優勝前の世界ランキングは30位だったが、一気に6位まで上昇し、日本勢トップに。逆転でパリ五輪出場を決めた。

 ただ、今シーズンはなかなか調子が上がらず、優勝は遠く感じられていた。それでも父・正和さんは米ツアーに同行し、娘を支え続けた。

「まさか、(ツアー2勝目を)また全米女子オープンで勝つとは思っていなかった」

 ホッとした表情を見せながら、幼少期の出来事を振り返った。

 笹生は父・正和さんとフィリピン人の母・フリッツィさんとの間に長女として生まれた。妹と3人の弟がいる7人家族だ。長女の優花は4歳までフィリピンで育ったが、その後、教育環境を考えて家族で日本へ渡った。

「日本語が分からないから幼稚園にいっても友達ができなくて、私が迎えに行くまでずっと玄関で待っているんです。まだみんな遊んでいるのに、もう帰る支度をしていました。テレビも何言っているか分からないし、家でも私や女房の周りにいる感じでした。それでゴルフの練習に連れていったんです。そしたら楽しかったのか、のめりこんでね。いま思うと友達ができない寂しさをゴルフで紛らわせていたのかもしれません」

 当時、米女子ツアー通算10勝のポーラー・クリーマーが優勝するシーンなど、海外の試合を見ていた笹生は「プロゴルファーになりたい。私もこういう風になりたい」と父に言った。

「練習に連れていくたびにプロになりたいって言うもんだから、『やめた方がいい』って何度も言いました。厳しいことを続けないとプロになんてなれないし、そもそも小学生ならこれからもっと楽しいことがたくさんあるのに。

 あんまりにもいうので、それで試しに小学2年の夏休みにフィリピンに連れて行ったんです。私がメンバーだったゴルフ場で、火曜日から日曜日まで、午前6時半から午後6時半まで40日間ほどゴルフ漬けですよ。普通、子どもだと途中で『帰ろう』とか『お腹がすいた』とか言って飽きちゃうもんですが、優花は私が帰ろうと言わなきゃ帰らないし、昼飯も食おうと言わないと食べない。当時は日本語もわからなかったでしょ、でも(学校とは違って)ゴルフ場だと言葉がいらない。私に教わっていればいい話だから、勉強よりもそっちに心が惹かれていったのかもしれません」

 5歳から8歳までの3年間を日本で過ごした後、正和さんはゴルフを本格的に始めるために娘を連れて再びフィリピンへ戻った。

 日本でもゴルフを続けさせることはできたが、現地ゴルフ場のメンバーでもあったため安く利用できるというのが魅力的だった。この時、小学3年になる娘とこんな約束事をした。

「俺の言う通りにできるならいいよ、と条件を出しました。本人の夢がプロゴルファーなら、絶対にプロにさせようと思っていましたよ。だからまず体作りをする。プロになれば毎日試合があるから、毎朝5時に起きる。そのほかにも決めたメニューをこなせなければ、すぐに日本に帰るという条件を出しました」