自分で決めれば逃げ道も後悔もない、節目ごとに巡り合うタイミングの良さ・福留孝介さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(41)

AI要約

福留孝介さんの野球人生について。大崎町でソフトボールを始め、中学では硬式野球チームに入る。PL学園高校に進学し、プロ野球選手を目指す決意を固める。

周囲と同じレベルで終わりたくないという意欲。全国大会で活躍し、プロ野球選手の道を選択して頂点を目指す姿勢。

プロ入り後、中日からメジャーリーグ、そして日本球界復帰まで。野球人生を支えた意欲の源について、福留孝介自身が語る。

自分で決めれば逃げ道も後悔もない、節目ごとに巡り合うタイミングの良さ・福留孝介さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(41)

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第41回は福留孝介さん。大阪・PL学園高時代にドラフト会議で7球団から指名を受けた逸材は社会人野球に進み、五輪でも奮闘。中日から大リーグへと活躍の場を移し、日本球界復帰後は45歳までプレーしました。輝かしい球歴に不可欠な、意欲の源を明かしてくれました。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽井の中の蛙にはなりたくなかった

 僕が育った鹿児島県大崎町やその辺りは、小学生の部活動っていうのはソフトボールで、野球がなかったんですよ。小学3年の時に始めるとなって、一応足が速い方だったので、監督に言われて左打ちに変えました。ソフトボールって、やっぱり右と左では一塁までの到達の時間がだいぶ違うので。それまで右打ちで真剣にやってたわけじゃないから、そんなに気にすることはなかったかな。最初の頃はセーフティーバントとか、意外とそういう小技とかをしていた記憶があります。

 小学校を卒業する頃に鹿屋ビッグベアーズ(中学生の硬式野球チーム)を知りました。高校へ行けば硬式なんで、早く慣れたいというのもあって中学校の部活に入らず、そっちの方に行ったんです。練習場へはバスで通いました。夏休みなんかは朝から家を自転車で出て1時間ぐらいですかね。そんなに練習が厳しいと思ったことはないです。監督は選手を大きく育てるっていうイメージですね。確かに作戦面で細かいこともありますけど、それよりもしっかりバットを振ってとか、そっちの方が強かったと思いますよ。全国大会で優勝しましたが、結構運もありますし、いいチームメートが多かったです。

 PL学園への進学のお話をいただき、自分の選択肢の中に入れることができました。九州にいると「井の中の蛙」じゃないですか。ずっと周りの知っている人たちと同じレベルでというんじゃなく、全く知らないところで全く知らないものに挑戦してみたいっていうのはあったんです。もちろん甲子園によく出ているのも、PLから数多くの選手がプロになっているのも知っていました。やっぱり中学を卒業する頃にはプロ野球選手になりたいと思い、なるべく都心に近い方が人の目に留まる可能性は大きいかなっていうのは僕の中であったんです。