水に沈んだ「生存伝説」 新田義貞 岐阜・揖斐川町(旧徳山村)/鎌倉末期~南北朝期

AI要約

新田義貞の伝承が残る櫨原地区に立つ石碑について。

義貞が追われた櫨原地区での最期の話や伝説が語られる。

ダム建設に伴い、鳥山神社は徳山神社へ、墓碑は望郷広場へと移転された。

水に沈んだ「生存伝説」 新田義貞 岐阜・揖斐川町(旧徳山村)/鎌倉末期~南北朝期

 「仁田四郎由定 鳥山神社」。揖斐郡揖斐川町の徳山ダム湖畔、旧徳山村櫨原(はぜはら)地区の望郷広場には、かつて集落があった湖を見下ろすように一つの石碑が立っている。

 「『にたんのしろうよしさだ』とは(南北朝期の武将)新田義貞のことで、彼の墓だと伝わる」。村出身の児童文学作家・平方浩介さん(88)=岐阜市=が、昭和期まで旧村内に残されてきた伝承について教えてくれた。南北朝の争乱のさなか、越前(福井県)で討ち死にしたとされる義貞は、山を越えて徳山・櫨原へ落ち延び、この地で亡くなったというものだ。

 新田義貞は関東の豪族で、1333年の鎌倉幕府倒幕の立役者。後醍醐天皇に重用され、足利尊氏が天皇と対立して新政権(北朝)を樹立すると、南朝方の総大将となった。足利方と各地で戦い、38年に越前で敗死したとされる。

 徳山村史や「美濃の民話」などに記された伝承によると、義貞は死なずに櫨原へ逃れ、ある民家にかくまわれた。ところが、持っていた金銭目当てに村人から命を狙われ、追い詰められた義貞は集落内の白山神社の大杉に登ってお金をばらまくと、刀の切っ先を口にくわえたまま飛び降りて自害した。すると、まかれたお金は蚕となり、シッペ谷に這(は)いずり入ってしまった。その後、集落ではたびたび火事が起こった。彼をかくまった家だけはいつも難を逃れた。たたりを恐れた村人たちは、義貞が亡くなった場所の近くに墓を建てて弔ったという。

 墓碑に刻まれている名前は、よく似ているものの「新田義貞」ではない。「勤王の士だったから、国の目を恐れて実名を用いなかったとの伝承」と平方さん。さらに「徳山は北陸と濃尾平野をつなぐ古くからの間道。越前から落ち武者が逃げてくるというのは、ありえない話ではない」と続けた。

 徳山村出身の小西順二郎さん(78)=揖斐川町=は「ダムに沈む前まで、櫨原には大きな杉の木があった。その近くに墓碑と小さなほこらがあったのも覚えている」と語る。望郷広場の櫨原集落図には、墓碑があった場所は「鳥山神社」と記されている。

 ダム建設に伴い、鳥山神社は、集団移転先の本巣市の徳山神社に合祀(ごうし)。墓碑は、望郷広場へと移され、“水に沈んだ伝説”を今に伝えている。

アクセス:徳山ダム湖畔にある櫨原望郷広場内

  概要:自然石、高さ約1メートル

※名前、年代、場所などは諸説あります。