専業主婦だった中村江里子の母が「銀座十字屋」の経営を引き継ぐと決意した理由

AI要約

日本は2024年度のジェンダーギャップ指数ランキングでG7最下位の118位となり、経済部門においても女性の能力を活かせていない状況が示されている。

中村江里子さんの母方の実家である「銀座十字屋」は、女性社長が複数代を務めた歴史を持つ。前編では、祖母・槇さんが苦労して社長になった経緯が紹介されている。

後編では、中村江里子さんの母・千恵子さんの話が紹介されており、戦争時代の苦しい経験や、母の働きぶり、再婚をしなかった理由などが明らかにされている。

専業主婦だった中村江里子の母が「銀座十字屋」の経営を引き継ぐと決意した理由

6月12日に世界経済フォーラムが発表した2024年度のジェンダーギャップ指数ランキングで、日本は146ヵ国中G7最下位の118位。2023年度の125位よりやや上がったのは138位だった政治部門が113位と、多少上昇したゆえだろう。

そして経済部門では2023年度の125位からほとんど変わらない120位。女性の能力を活かせていないということは能力がないも同然。女性の経営者や管理職が著しく少ないことを示している。

中村江里子さんの母方の実家である「銀座十字屋」は、創業150周年を迎える2024年現在、江里子さんの弟の倉田恭伸さんが社長を務めるが、その前は江里子さんの母・千恵子さん、父・清郎さん、そして祖母の倉田槇さんが社長をつとめていた。「女性社長」がいた会社だ。

中村江里子さんが2013年に出版した『女四世代、ひとつ屋根の下』(講談社文庫)「第3章 実家が経営する、十字屋のこと」から抜粋紹介する前編では、祖母・槇さんが戦争で夫を亡くし、必死の思いで社長になっていったことをご自身から聞いた箇所を紹介した。

後編では、中村江里子さんの母・千恵子さんと中村さんの言葉を伝える。

――中村千恵子さんの話(2013年当時の話)

昭和18年11月、母・倉田槇は、空襲中、明かりが漏れないように窓を黒い紙で覆った病室でわたしを産み、出産直後、まだ出血している状態で、産まれたばかりのわたしを連れて、防空壕に移動したそうです。

わたしは父に会ったことがありません。わたしがこの世に生を受けたとき、父はもう戦地に赴いていました。母は戦地の父にわたしの写真を送ったそうですが、それも見ることができたかどうかわからないそうです。

若くして夫を亡くした母ですが、再婚はしませんでした。小学校1年のとき、わたしが「きっとお父さまは戻ってくるから、結婚しないでね」と言ってしまったことが影響しているのではないかと心苦しく思っています。わたしが24歳で結婚する際、「お母さまも結婚したら?」といったのですが、「いまさら遅いわよ」と母。当時、母はまだ49歳。決して遅くはなかったと思うのですけれど……。

母は、わたしが物心ついたときから働いていました。学校の父母会には祖母が来てくれましたし、家では4人の、母の従妹たちがわたしの相手をしてくれました。母の槇がいちばん年長で、その下に君江姉さん、静子姉さん、明子姉さん、節子姉さんと続きます。そんな従妹たちとまるで姉妹のように育ちました。4人ともうちから嫁いでいるんですよ。従妹たちに槇子姉さんと呼ばれていた母も、その従妹たちも、わたしにとっては女ばかりの姉妹の、年の離れた姉のような存在でした。