「(供養のため戦死した仲間の手首を)切って焼いて持ち帰った」 戦後79年、失われつつある戦争体験者の貴重な証言 

AI要約

元日本兵の難波和夫さんの戦争体験を通じて、第二次世界大戦の悲惨さが伝わる

難波和夫さんの貴重な証言を通じて、戦争の実態がリアルに伝えられる

第二次世界大戦終結から79年を迎える今でも、戦争の無意味さが訴えられる

「(供養のため戦死した仲間の手首を)切って焼いて持ち帰った」 戦後79年、失われつつある戦争体験者の貴重な証言 

今年の8月15日で終戦から79年を迎えます。

日本海テレビでは、実際に戦地に赴いた経験がある元日本兵の男性に話を聞くことができました。戦争体験者が年々少なくなる中、貴重な声を伝え続けていくためには…証言を残す取り組みに力を入れる自治体の活動も紹介します。

島根県飯南町に第二次世界大戦で数々の戦闘を生き抜いた元日本兵の男性がいます。難波和夫さん、104歳。太平洋戦争が始まる2年前の1939年、広島の海軍工廠(こうしょう)で働いていた二十歳のときに召集令状が届きました。

難波和夫さん

「あの頃は何も思わない。誰もが(戦争に)行くことは当たり前」

旧陸軍の浜田連隊に入隊し、十分な訓練を受けないまま、中国へ渡った難波さん。毎日のように繰り返された銃撃戦の様子が今も脳裏に焼き付いてます。

難波和夫さん

「(仲間が)パンパンパン!と撃たれたんです。(銃弾が)ここから入って後頭部へ出る。脳みそがドロッと出て頭をやられたから即死です」

次々と銃弾に倒れていく戦友たち。戦闘の合間でもなんとか供養してあげたいと、遺体の一部を持ち帰りました。

難波和夫さん

「(戦死した仲間の手首を)この辺から切って焼いた。日の丸の旗を出して(遺骨を)包んで結わいて首にかけて歩いた。戦いの最中だからしょうがなかった、助けられなかったなと思った」

また、兵士たちを苦しめたのが食料難。部隊から十分な支給はなく、中国での戦いでたびたび行われたのがー。

難波和夫さん

「不足分は現地調弁、わかります?早く言えば『盗っ人をして食え』」

現地の中国人からコメなどを奪って生き延びました。

Q:盗んだ時に中国人から何か言われたか?

難波和夫さん

「中国人は戦争の時には日本軍には近寄らない、殺されるから」

難波さんはその後も転戦を繰り返し、終戦までの6年間を戦場で過ごしました。

難波さんの当時の貴重な証言に耳を傾けているのは、ひ孫のちひろさん。

難波さんのひ孫・ちひろさん

「よく弾が当たらずにここまで長生きされたのがすごい。今でもウクライナとかの戦争で亡くなっている人がいるので、この世から無くなってほしいと思います」

第二次世界大戦の終結から79年を迎えても、世界中で今も続いている争い。

難波和夫さん

「私らが中国でやった戦争と同じです。戦争はいけません」