『蜻蛉日記』を執筆した、道綱母の百人一首「嘆きつつ~」の意味や背景とは?|右大将道綱母の有名な和歌も解説【百人一首入門】

AI要約

右大将道綱母は平安時代中期の歌人であり、藤原兼家から求婚されて道綱を出産したが、時姫という妻がいたため寂しい日々を送ることが多かった。

彼女の作品『蜻蛉日記』は日常を生々しく綴ったものであり、女流日記文学の先駆者とされ、その影響は紫式部の『源氏物語』にも及んでいる。

道綱母は和歌にも通じており、『小倉百人一首』にも作品が収められている。夫である兼家に対する心情を詠んだ和歌も多数残している。

『蜻蛉日記』を執筆した、道綱母の百人一首「嘆きつつ~」の意味や背景とは?|右大将道綱母の有名な和歌も解説【百人一首入門】

右大将道綱母(うだいしょう・みちつなのはは)は、平安時代中期の歌人です。時の権力者である藤原兼家(かねいえ)から求婚され、道綱を出産しました。しかし、兼家にはすでに時姫という妻がいて、道綱母は寂しい日々を過ごすことが多かったとされます。

そのような、満たされなかった生活を題材として執筆したのが、『蜻蛉(かげろう)日記』です。それまでのフィクション要素の強い物語に対し、日常をありのままに綴った道綱母の作品は、紫式部の『源氏物語』にも大きな影響を与えたといわれています。

女流日記文学の先駆者といわれることもある、右大将道綱母。和歌にも精通していたため、『小倉百人一首』にもまとめられている「嘆きつつ~」など、さまざまな歌を残しています。本記事では、艶聞の絶えない夫・兼家を思う心情を詠んだ、右大将道綱母の百人一首について、ご紹介いたします。

『更級(さらしな)日記』の作者・菅原孝標女(すがわらの・たかすえのむすめ)を姪に持つ、右大将道綱母。のちに関白を務めることになる藤原兼家と結婚し、息子の道綱を授かりました。しかし、それ以降、道綱母には子どもが生まれなかったそうです。

一方で、もう一人の妻・時姫は、多くの子女に恵まれました。一条天皇を出産した藤原詮子(せんし/あきこ)や、栄華を極めた道隆・道長兄弟も、時姫の子どもたちです。そのため、兼家は時姫のもとを頻繁に訪れるようになり、道綱母は不本意な結婚生活を強いられることになります。

また、この時代の著名な女流作家の多くは、宮中に仕えた女房であったのに対し、終始家庭にあった作家という特色をもつ道綱母。『蜻蛉日記』のほかに、つれなくなった夫・兼家に向けた和歌も残しています。それが、

嘆きつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

という和歌です。

『小倉百人一首』の中では53番目にまとめられている、道綱母の和歌。現代語訳すると、「嘆きながら、一人寂しく寝る夜が明けるまでの時間がどれだけ長いことか、あなたはおわかりにならないでしょうね」という意味になります。