渋沢栄一は「女性問題でいろいろあって…」と後継者の孫を知人に託した…祖父よりすごい敬三のエリート人生

AI要約

渋沢栄一は私生活もエネルギッシュで、妻と妾を同居させ子を17人以上もうけたが、嫡男は女性問題で廃嫡された。その後継者となった孫の敬三には高い期待がかけられたが、結婚相手にも問題が起こりそうだった。

女性関係の派手な渋沢栄一は、自身が提唱した「論語と算盤」には「姦淫するなかれ」という訓戒がなかった。また、嫡男の篤二は恋愛問題で退学させられ、その息子の敬三も結婚相手に問題を抱えていた。

渋沢栄一は敬三に高い期待を持っており、敬三も女性問題を起こさず、ちゃんとしたお嬢さんと結婚することになった。また、栄一は敬三の教育を後見してくれるよう親しく知人に頼み込んでいた。

新1万円札の顔、渋沢栄一は妻と妾を同居させ、子を総勢17人以上作るなど、私生活もエネルギッシュだった。経営史学者の菊地浩之さんは「嫡男も女性問題を起こし廃嫡に。栄一は成績優秀な孫の敬三を後継者にしようと考え、仙台二高に行かせるとき、知人に『(自分の)女性問題があって教育がやりくにいから、後見してくれ』と頼み込んだ」という――。

■渋沢栄一のバイブル『論語』には「姦淫するなかれ」がない

 新1万円札の顔になった渋沢栄一(しぶさわえいいち)(1840~1931年)。彼が提唱した「論語と算盤」について、娘たちは論語とはいいものを見つけたわねと皮肉った。これが聖書だと、自身の女性関係が問題になるが、論語にはそうした訓戒がないからだ。渋沢栄一はビジネスも女性関係も派手だった。

 嫡男(長男が夭折しているので次男)の渋沢篤二(とくじ)(1872~1942)は、旧制第五高等学校(熊本市)に入学。「そこの土地の娘と恋が芽生えた。一途な情熱は、彼に金を惜しみなく浪費させた。栄一はじめ二人の姉たちは、『すわお家の一大事』と、慌てて退学させ帰京させてしまった」(『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一』)という。

 その事件のほとぼりが冷めた1895年、篤二は橋本敦子と結婚した。姉の嫁ぎ先の近所に住んでいた元公卿の家柄で、和宮の血縁にあたる名家である。

 篤二は文芸方面には優れた才能を見せ、名犬を育てることが上手なブリーダーとしても有名になったそうだが、ビジネス方面には興味がなかったらしい。さすがの渋沢栄一もこれではいかんと考え、1913年に篤二を廃嫡(家督相続人から除外)処分とし、篤二の長男・渋沢敬三(けいぞう)(1896~1963)を後継者とした。

■勉強のできる孫の敬三に期待をかけたが、結婚相手が問題に

 栄一は敬三を極めて高く買っていた。敬三は旧制第二高等学校(仙台市)に入学したが、篤二の二の舞にしてはならないと、仙台在住の知人に監督を依頼した。

 その知人・早川知寛(ともひろ)の子である退蔵の述懐によれば、「うちの親父に渋沢(栄一)さんから、えらい長い手紙がきた。『この孫は、自分の子供や孫のうちで一番出来(でき)がいい。この孫に自分は非常に期待をかけているんだ』、そして『恥かしい話だけれども、女性の問題ではいろいろあって、教育やりにくい点がある。とにかくこの孫に、自分は、えらい期待をかけているんだから、(敬三が)仙台に行ったら、あなた(知寛)が後見をしてくれ。時々呼びつけて訓戒をしてくれ』と、こんこんと頼んだ手紙だと言うんだね。それで、(知寛は敬三を)呼びつけて『敬三、敬三』と言ってやったと言うんだ」(渋沢敬三伝記編纂刊行会編『渋沢敬三』)。

 おかげさまで、敬三は女性問題を起こすようなことはしなかった。結婚したいと、ちゃんとしたお嬢さんを家に連れてきた。京都府知事の木内重四郎(きうちじゅうしろう)の長女・登喜子(ときこ)である。敬三が親友・木内良胤(よしたね)の家に遊びに行っているうちに、その妹と恋仲になってしまったのだ。