沖縄「市街地のこんなに近くでも…」記者も参加した戦没者遺骨収容 〝未完の戦争〟実態描く「骨を掘る男」

AI要約

ドキュメンタリー「骨を掘る男」は、沖縄で40年以上にわたり、第二次世界大戦、ことに沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収容を続けている具志堅隆松氏(70)の活動に迫る。

1945年4月1日。米軍が沖縄本島に上陸した。日本軍守備隊司令部が置かれていた首里に向かい南下した。守備隊は5月下旬に首里を放棄し、糸満方面に南下していった。多くの住民が行動をともにした。雨期。砲弾、銃弾が飛び交う「鉄の暴風」の中、小さな子どもを含めた非戦闘員が、平時では決して近付かないであろう、狭く暗いガマ(自然壕=ごう)に避難した。

具志堅氏は「ガマフヤー」代表。沖縄の言葉で「ガマを掘る人」。野山で遊んでいた子どものころ、鉄かぶとと頭蓋骨(ずがいこつ)を見つけた。親は「触ってはいけない。いつか家族が迎えに来るから」と言った。1982年、本土から来た遺骨収容団を手伝ってから続けている。これまでおよそ400体を探し出した。

映画は、暗闇にともる小さな光から始まる。沖縄本島南部のガマで、ヘッドライトをつけた具志堅氏が大きなため息をつく。

沖縄「市街地のこんなに近くでも…」記者も参加した戦没者遺骨収容 〝未完の戦争〟実態描く「骨を掘る男」

ドキュメンタリー「骨を掘る男」は、沖縄で40年以上にわたり、第二次世界大戦、ことに沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収容を続けている具志堅隆松氏(70)の活動に迫る。メディアは「戦後〇〇年」という表現をする。だが戦闘が終わっても戦争被害は終わらない。その象徴が戦没者遺骨の問題だ。本作は、そうした「未完の戦争」の実情を伝える意欲作だ。記者(栗原)は主人公である具志堅氏を10年前から取材し、収容にも同行させてもらった。その経験も含めて作品の見どころを伝えたい。

1945年4月1日。米軍が沖縄本島に上陸した。日本軍守備隊司令部が置かれていた首里に向かい南下した。守備隊は5月下旬に首里を放棄し、糸満方面に南下していった。多くの住民が行動をともにした。雨期。砲弾、銃弾が飛び交う「鉄の暴風」の中、小さな子どもを含めた非戦闘員が、平時では決して近付かないであろう、狭く暗いガマ(自然壕=ごう)に避難した。日米による死闘は3カ月近く続いた。死者は日本人だけで18万人、米兵などを合わせると20万人以上が命を落とした。「戦後79年」の今も膨大な遺体、遺骨が行方不明だ。

具志堅氏は「ガマフヤー」代表。沖縄の言葉で「ガマを掘る人」。野山で遊んでいた子どものころ、鉄かぶとと頭蓋骨(ずがいこつ)を見つけた。親は「触ってはいけない。いつか家族が迎えに来るから」と言った。1982年、本土から来た遺骨収容団を手伝ってから続けている。これまでおよそ400体を探し出した。

映画は、暗闇にともる小さな光から始まる。沖縄本島南部のガマで、ヘッドライトをつけた具志堅氏が大きなため息をつく。「……どれくらい人がいたんだろうね。どこまで入っていたんだろうか。換気は悪いし……。こういう中に多くの人が逃げてきて……。現代人だったらこの中で食事をとって、用足しもして、そこで眠りなさいと言われたら、できないだろうね」

ガマには不発弾が残っている可能性がある。ハブの脅威も。そんな中で黙々と骨を探す具志堅氏を、カメラは静かにとらえる。黒くすすけた岩は、米軍の火炎放射の跡。平時に埋葬された遺体や遺骨とは違い、まるまる一体が見つかることはほとんどない。多くは粉々の骨だ。かんざしなどの遺品も見つかる。民間人がいたことが分かる。