「地下鉄の父」があわや海の藻くず?日本の地下鉄と第一次世界大戦の浅からぬ関係とは

AI要約

第1次世界大戦の勃発と、日本の「地下鉄の父」早川徳次のイギリス留学について述べられています。

早川徳次がイギリス滞在中に空襲に遭遇し、その状況が描かれています。

彼が空襲が激化するロンドンから疎開する姿勢も見受けられます。

「地下鉄の父」があわや海の藻くず?日本の地下鉄と第一次世界大戦の浅からぬ関係とは

 今から110年前の6月28日に発生した、セルビア人青年によってオーストリアの皇太子夫妻が殺害された「サラエボ事件」。第1次世界大戦はここから始まった。そのさなかにヨーロッパへ向かったのが、日本の「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次だ。日本の地下鉄史と第1次世界大戦との密接な関係とは。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

● 第1次世界大戦時の イギリスに渡った「地下鉄の父」

 今から110年前、1914年6月28日に発生した、セルビア人青年がオーストリアの皇太子夫妻を殺害した「サラエボ事件」。人類史上最大の戦争の一つ、第一次世界大戦はここから始まった。

 オーストリア=ハンガリー帝国は同年7月28日、セルビアに宣戦布告。セルビアへの軍事支援に動いたロシアに対し、三国同盟を構成するドイツが宣戦布告したことで、三国協商からフランス、イギリスが参戦。日本も日英同盟に基づき、8月23日にドイツに宣戦布告した。

 そんな世界の激動期にイギリスに渡り、戦時下の欧米を遊学したのが、後の「地下鉄の父」こと早川徳次だ。彼はロンドンで見た、路面電車が撤去された都心と、市内全域に張り巡らされた地下鉄に衝撃を受け、路面電車が行き詰まった東京にも絶対に地下鉄が必要だと決意し、一生を地下鉄建設にささげることになる。

 早川は早稲田大学を卒業後、後藤新平を慕って秘書見習いとして南満州鉄道に入社したが、後藤が逓信相に就任するため満鉄総裁を辞職したため、早川も満鉄を退社した。

 その後、鉄道業界を志した彼は鉄道院(国鉄)で現場の業務を学んだ後、東武鉄道の社長根津嘉一郎に見いだされ、東武の子会社である佐野鉄道(現在の東武佐野線)、高野登山鉄道(現在の南海高野線)の経営再建を任された。

● 早川徳次が見た 戦時のイギリス

 高野登山鉄道の再建を果たした早川は、有効活用されていなかった大阪港を見て、鉄道先進国イギリスに留学し鉄道と港湾の関係を研究しようと考えた(前述のように、これは放棄されて地下鉄に傾倒する)。早川は1914年8月に横浜港を発つが、準備の過程で欧州情勢が急激に緊迫化していったことが分かる。

 早川は10月にロンドンに到着するが、航海中の9月6月には、パリに進軍するドイツ軍をフランス・イギリス連合軍が迎え撃つ「マルヌ会戦」が勃発。必死の抵抗でドイツ軍を食い止め、パリを陥落の危機から救ったことで、ドイツがもくろんだ短期決戦は頓挫し、「すぐに終わる」とみられていた戦争は長期化が避けられなくなった。

 そこで総合的な国力で劣るドイツは、イギリス領土内の民間施設に対して空襲し、国民の継戦意思をくじくことで早期決着を狙おうと考えた。史上初の「戦略爆撃」である。最初の空襲は1915年1月19日、イギリス南部の港湾都市グレート・ヤーマス、キングズ・リンに対して行われた。まだ航空機の黎明期であり、大量の爆弾を搭載した長距離飛行は不可能だったので、空襲は2隻のツェッペリン飛行船で行われた。

 早川は帰国後、イギリス滞在中の日記をまとめた書籍『大英国の表裏』を出版しており、1月20日の項で本土初空襲に触れている。彼の目に映るイギリスは、開戦半年が経過しても、兵士募集の広告と軍服姿の兵士が増える以外、変わりない日常生活を送っていたが、そんなイギリス国民も、本土空襲にはさすがに衝撃と恐怖を覚えたようだ。

 4月までに6回の空襲が行われたが、イギリスは講和に応じなかった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は標的の拡大には消極的だったが、イギリスを屈服させるにはロンドン空襲が必要という軍部の意見を受け入れ、5月31日にロンドンに対する初の空襲が敢行された。

 夜の闇に紛れ、当時の戦闘機や高射砲が届かない高度3000メートルから爆弾を投下する飛行船に対し、イギリスは無力だった。空襲は8月ごろから再び激化し、ロンドン中心部「シティ」にも大きな被害が生じている。

 『大英国の表裏』に収録された日記は1914年10月から1915年3月までなので、ロンドン滞在中の早川が空襲をどのように受け止めたのかは分からない。ただ、彼は1915年9月から10月にかけて、ニューカッスル・アポン・タイン、エディンバラ、グラスゴー、ホリーヘッド、ベルファストと、イギリス国内を巡っており、これは空襲が激化するロンドンから疎開する意味もあったのかもしれない。