日本国民に知られないように交わされた硫黄島「核密約」の具体的な中身

AI要約

硫黄島で消えた1万人の日本兵の謎を解き明かすため、米国の機密文書を徹底調査したノンフィクションがベストセラーとなっている。

1968年、日米関係の緊張の中で、小笠原諸島の返還協定をめぐる「小笠原議事録」が交わされ、核兵器の密約が明らかにされる。

日本政府の非核三原則との矛盾を克服するために、日米双方が複雑なやり取りを経て、合意に至った出来事が詳細に描かれている。

日本国民に知られないように交わされた硫黄島「核密約」の具体的な中身

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

三木外相とジョンソン大使の議事録は研究者間で「小笠原議事録」と呼ばれている。議事録の草稿には、核密約を結んだと直接的に記載されているわけではない。研究者らが、婉曲な表記を解析した結果、核の密約が交わされたと結論付けたのだ。

1968年当時、日米関係は現在と大きく違った。ベトナム戦争などを背景に、日本国民の対米感情は戦後最悪と言われるほど悪化していた。米国は、対立するソ連などから自国を守るためには、日本との良好な関係が不可欠と考えていた。その考えに基づき、日本人の感情を改善するために、米軍占領下の小笠原諸島を日本側に返還する判断を下した。

米国は核攻撃された場合、最初に壊滅させられるのは日本本土や沖縄の基地だと想定していた。従って、反撃に転じるためには、日本本土や沖縄から遠く離れた小笠原諸島に速やかに核を配備する態勢の確保が必要だった。一方、日本政府側は、その希望に応じたくなかった。日本は先の戦争で原爆投下の悲劇を経験した国で、核兵器廃絶を望む国民世論が支配的だったためだ。

そこで両国政府は1968年4月5日に小笠原諸島返還協定を結ぶ際に、国民に知られないように密約を交わすことにした。それがいわゆる「小笠原議事録」だ。

小笠原議事録は、次の二つの文書から成ることが分かっている。

(1)事前協議に関する討議の記録(以下、討議の記録)

(2)事前協議に関する討議の記録を補足する口頭発言(以下、口頭発言)

二つとも、小笠原諸島返還協定時の、ジョンソン大使と三木外相の発言を記録した形式でまとめられている。

(1)は、簡単な言葉に置き換えると、次のような内容だった。

ジョンソン大使「小笠原諸島に核兵器を貯蔵しなくてはならない有事の際、日本政府の好意的な反応を期待します」

三木外相「在日米軍の装備の重要な変更は、事前協議の対象となっています。現時点ではあなたが言う状況において日本政府はそのような協議をすることになるとしか言えません」

会談当日、二人がこの発言をすることはあらかじめ決められていた。しかし、数日前になって突然、三木外相は、この発言を否定する声明を出したいと米国側に求めた。それはなぜか。佐藤栄作首相(当時)が国会演説で示した「非核三原則」に矛盾する発言だったからだ。非核三原則とは、核兵器を持たない、作らない、持ち込ませないことを日本の国是とすると宣言したものだ。

日本側が直前になって姿勢を変えたことに対し、米国側は憤りを顕わにした。小笠原諸島の返還も白紙化しかねない事態に発展した。それは、日本側にとっても困る事態だった。結局、日米双方は話し合い、会談当日に公式文書自体には記載しないことを条件に、三木外相が望む発言とそれに対するジョンソン大使の発言を何らかの形で記録に残すことにした。それが(2)の「口頭発言」だ。要約すると、こんな内容だった。

三木外相「この際、核に対する日本の立場を伝えておきます。佐藤栄作首相は1月27日に国会で行った演説で、核を保有したり、持ち込みも許さない決意であると述べました」

ジョンソン大使「そうした演説が行われたことは私も知っていますが、事前協議の場で話し合うというあなたの発言を変更するものではないと理解します」

三木外相「然り」