多くの日本人が知らない、米軍が硫黄島で行っていた「核戦争を想定した大規模訓練」の実態

AI要約

硫黄島で何が起きていたのか、なぜ日本兵1万人が消えたかについて明らかになる。

硫黄島は核の密貯蔵地として使われ、核兵器の訓練も行われていた。

硫黄島に関する今なお隠された核密約や、民間人の渡島制限の理由に迫る。

多くの日本人が知らない、米軍が硫黄島で行っていた「核戦争を想定した大規模訓練」の実態

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

島民の目がある父島では機密保持に限界があった。こうした父島の実情を踏まえると、島民不在の硫黄島は、核の秘密貯蔵の適地中の適地だった。

米軍が冷戦時代、秘密のベールで包んだ硫黄島で行っていたのは、核の貯蔵だけではなかった。核兵器が配備された直後、核戦争を想定した大規模な訓練を実施していたのだ。その詳細を、米軍の準機関紙である「星条旗新聞」が報じている。

1956年2月19日付紙面を国立国会図書館で見た僕は「何だ、これは」と声を上げそうになった。摺鉢山を背景に大きなキノコ雲が立ち上る写真が掲載されていたからだ。記事によると、これは「模擬原爆」の煙だった。世界唯一の被爆国で核廃絶運動が盛んな日本の本土で行えば、反米感情が一気に高まっていただろう。そんな訓練を米軍は行っていたのだ。

外務省外交史料館所蔵の簿冊『藤山外務大臣第1次訪米関係一件(1957・9)第2巻』に収められた藤山―ダレス会談記録(「九月二十三日大臣ダレス国務長官会談録訂正の件」)には、日本側の担当者による注目すべきメモ書きが残されていた。島民が希望する墓参に対する今後の対応について、藤山大臣が尋ねた際、こんな一コマがあったと伝えた。

〈(同席した次官補の)ロバートソンがダレスに耳打ちした際(top secret)という言葉が一寸聞えたそうです。つまりSecurityの為に日本人には目的の如何を問わず来て貰っては困ると云う事の様です〉

〈Security〉とは米国が自国を共産国の侵攻から守る「安全保障」のことだ。安全保障の最大の戦略は、極秘の核配備だ。つまり、旧島民が島に帰れないのも、戦没者の遺骨が祖国に帰れないのも、核兵器のためだったのだ。

その結論に至った僕は新たな謎に向かうことになる。硫黄島の核関連兵器は米国側の記録の上では、1966年6月にすべて撤去されたことになっている。隠すべき核がなくなったのに、なぜそれ以降も民間人の渡島制限が続いたのか。それは、日米両政府が今なお隠し続ける「核密約」があるからだ、との指摘があることが分かった。

返還後の知られざる核の歴史が、僕にとって新たに目指すべき「未踏の地」に定まった。