たった一人で22名もの米兵を殺傷……「凄腕スナイパー」の壮絶な最期とは #戦争の記憶

AI要約

沖縄戦で米軍に圧倒されながらも、凄腕スナイパーが狙い撃ってパニックを招く一人の兵士がいた。

1945年6月4日、摩文仁の国吉台地で大隊が配置し、最後の防衛線の西端を守るために準備をする。

日本軍は物資も兵力も不足しており、米軍に圧倒されつつも、決死の覚悟で戦う状況であった。

たった一人で22名もの米兵を殺傷……「凄腕スナイパー」の壮絶な最期とは #戦争の記憶

 県民の4人に1人が犠牲となった、沖縄戦。「ありったけの地獄を集めた」といわれるこの激戦地で、米軍から陣地奪還を果たした大隊があったことをご存じだろうか。

 兵員の数はもちろん、武器弾薬や医療品、食料など物資の面でも米軍に圧倒されていた日本軍にとって、「勝てるはずのない戦争」なのは明らかだった。それにもかかわらず、米海兵隊員を次から次へと狙い撃ってパニック状態に追い込んだ一人の兵士がいた。この「凄腕スナイパー」とは、いったいどんな存在だったのか。

 当時、第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いた伊東孝一大隊長は、凄惨な戦闘の模様を述懐する――。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第1回です】

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 1945年6月4日、大隊と配属の各隊は糸満の国吉地区の丘陵(以下、国吉台地)で、配置についた。隆起したサンゴ礁の切り立った台地の北側に、横一線で並んで陣を構える。ここは、摩文仁(まぶに)にある軍司令部を守備する、最後の防衛線の西端だ。

 進撃してくる敵を正面から防御するには、約800メートルの幅で迎え撃たねばならない。大隊といえども1個中隊レベルの員数では無理があった。ゆえに、本部も第一線で戦うため、防衛ラインの中央に位置させる。それは、断崖を背にした背水の陣で、すべての兵が決死一丸となるためだ。

 空を見上げれば米軍機が我が物顔で乱舞し、西方海上にはその艦船が憎々しいまでに悠然と浮遊している。戦車を伴った敵の歩兵は、これらの支援を得て、物資や人的な数量においても圧倒的な勢いで迫ってくるだろう。

 それに対して、武器、弾薬だけでなく、水や食料も不足する我が軍。兵士の数も足りず、解散した野戦病院の軍医や衛生兵、経理部の主計兵らが配属されてきた。彼らのほとんどが、戦い方を知らず、銃も持っていない。手榴弾を護身と自決用に一発ずつ支給されているだけだ。