「竹やりでは間に合わぬ」太平洋戦争時の“勇気ある”東條英機批判は評価すべきなのか?《激怒の真相》

AI要約

昭和19年、毎日新聞が東條英機首相を批判する記事を掲載し、東條が激怒する事件が起きる。

新名丈夫記者の記事は陸海軍航空機配分論争を扱い、東條を非常に激怒させる。同時代には褒められる行動ではなく、細川護貞も東條に同情的であった。

記事は海軍への航空機重点配分を訴える一方的な政治キャンペーンであり、東條の配分調整に苦慮していたことによる怒りだった。

「竹やりでは間に合わぬ」太平洋戦争時の“勇気ある”東條英機批判は評価すべきなのか?《激怒の真相》

 昭和19年、悪化し続ける戦況の中、東條英機首相を批判する新聞記事が話題を集めた。「竹やりで戦争をしている愚かな指導者」であるかのように伝える論説は正鵠を得ていたのだろうか。  『東條英機「独裁者」を演じた男』 (文春新書)より抜粋し、東条が激怒した真相、そして記事に隠されていた意図を解き明かす。(全2回の前編/ 続きを読む )

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 陸海軍航空機配分論争の過程で、毎日新聞が東條批判の論説を掲げるという事件が起こった。1944(昭和19)年2月23日の朝刊一面に、記者の新名丈夫が「勝利か滅亡か戦局はここまで来た」、「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」との記事を掲載した。東條は激怒し、新名を懲罰召集して前線に送ろうとしたという(新名『政治』)。

 今日では新名の行動は勇気ある東條批判として評価が高いが、同時代の政治的文脈では、必ずしも褒められるべきものではなかった。近衛文麿の側近・細川護貞は同月26日の日記に「公爵の所に東京新聞記者池田某来りての話に、二十三日の毎日に、「勝利か滅亡か」なる表題ありしも、東条は是を見て激怒したる由。是は記者の非常識にして、東条の激怒もまた宜なり」(『細川日記(上)』)と書いている。

 東條に批判的な細川も、この問題に限っては東條に同情的だった。彼が毎日の記事のどこを「非常識」と見なしたかについては多様な解釈が可能である。東條を飛行機ではなく竹槍で戦争している愚かな指導者であるかのように批判しているのは端的に事実ではなく、したがって「非常識」である。そもそも対外戦争の最中に、国民の面前で最高指導者に無能のレッテルを貼ること自体が「非常識」である。

 また、これは深読みになるが、細川は「勝利か滅亡か」という見出しも問題視した可能性がある。そのような扇情的な言葉を使えば、国民は徹底抗戦を覚悟するかもしれない。その場合、後述する細川らの和平工作はつぶれてしまうだろう。

 新名の記事は、海軍にくみして海軍への航空機重点配分を世論に訴えた一方的な政治キャンペーンに過ぎないともいえる。陸海軍の配分調整に苦慮していた東條が怒ったのは当然である。