特攻に「志願したか」と聞かれて、「まだです」と答えた戦闘機乗りに対して飛行隊長が「独り言のように言い残したひとこと」

AI要約

大原亮治氏が太平洋戦争期の体験を語る。彼はソロモン諸島やニューギニアの戦線に従事し、多くの敵機を撃墜した。また、特攻隊の募集や志願についても言及している。

戦中、大原は零戦隊での激しい戦闘を経験し、横須賀海軍航空隊に転勤後は新型機のテスト飛行に従事した。

特攻隊への志願について、上司の小福田隊長からの助言が示唆的であったことが記されている。

特攻に「志願したか」と聞かれて、「まだです」と答えた戦闘機乗りに対して飛行隊長が「独り言のように言い残したひとこと」

私が今年(2024)6月25日に上梓した『決定版 零戦最後の証言2』は、4月に刊行した『決定版 零戦最後の証言1』と同様、私が直接インタビューを重ねた元零戦搭乗員たちが、戦争をいかに戦い、激動の戦後をいかに生きてきたかを、戦中、戦後の写真とともに解き明かしたものである。登場人物は各巻8名で、『2』は進藤三郎、日高盛康、羽切松雄、角田和男、原田要、小町定、大原亮治、山田良市の各氏。8月末には『決定版 零戦最後の証言3』が出て、それで完結する予定だ。今回は『決定版 零戦最後の証言2』のなかから大原亮治氏(1921-2018)が体験した日本本土上空の空戦のエピソードをリライトの上、ご紹介する。

大原亮治・元海軍飛行兵曹長は、昭和17(1942)年10月、第六航空隊(11月、第二〇四海軍航空隊と改称)零戦隊の一員として、ソロモン諸島のガダルカナル島、ニューギニアのポートモレスビー攻防戦の二正面作戦の最前線だったニューブリテン島ラバウル基地に着任。

主に零戦隊の名指揮官として知られる宮野善治郎大尉(昭和18年6月16日戦死)の三番機を務め、投入された搭乗員の75パーセントが戦死するという激戦地で1年以上にわたって戦い、記録に残るだけでも10数機の敵機を撃墜して生き抜いた。

昭和18(1943)年11月、海軍航空の総本山ともいえる横須賀海軍航空隊(横空)に転勤後は、各種新型機のテスト飛行などに任じている。

昭和19(1944)年8月中旬、横空でも「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者の募集が行われた。これは、開発が決まった人間爆弾「桜花」のテストと部隊編成のためだった。隊員たちの知らないところで、すでに「特攻」が海軍の既定路線となっていたのだ。

「生還不能と言われてもね、こっちは戦闘機乗りで、敵機を墜として生きて還るのが仕事ですから。横空では特攻志願の募集が昭和19年の12月にもあり、志願する者は隊長室を一晩開けておくから、名前を書いた紙を置いておけ、ということだったんですが、誰も志願しなかったらしく、数日後にもう一度話がありました。

当時、横空の飛行隊長は、ラバウルでも私の隊長だった小福田租少佐でした。二度めの募集の訓示が終わった晩、航空隊庁舎の廊下ですれ違ったとき、『大原、お前志願したか』と訊かれ、『いえ、まだです』と答えたら、隊長は『するなよ』と独り言のように低く言い残して士官室に入っていった。結局、私は志願しませんでした」

と、大原は私に語っている。