被爆死した妹が遺した日記 姉は後輩の依頼で被爆証言を再開 「こういう時代があって平和なきょうがある」【広島発】
12歳で被爆死した少女の日記とその姉の被爆証言から、被爆者の心の痛みや辛さが伝わる。
日記は新生活の喜びから始まり、戦況の悪化とともに不安や恐怖がつづられる。
姉の証言から、被爆時の運命の差や死者の処理の厳しさが明らかにされる。
シリーズ被爆79年「残された時間(とき)」。被爆死した少女が遺した日記とその姉の被爆証言から、いかに証言者の心の痛みや辛さを伝えていくかを考える。
原爆資料館で行われている企画展で、12歳で被爆死した少女の日記が展示されている。
日記は学校での新生活への喜びから始まる。
<日記の内容>
4月6日「一生に一度しかない学校への入学式。一日でも早く皆んなと仲良くしたい」
4月9日「きょうからいよいよ学校が始まった。女学校に来るのが楽しくてたまらない」
その後、戦況の悪化とともに、出てくる言葉も「B29」「警報発令」「憲兵隊」と、勉強どころではない様子が伝わってくる。
そして8月5日「泳ぎに行った。今日は大へんよい日でした。これからも一日一善と言うことをまもろうと思う」で終わっている。
この日記は石崎睦子さんのもので、12歳のとき学徒動員先で被爆し、行方不明のままだ。
姉の植田のり(※漢字は矢に見)子さん。92歳の今もあの日の記憶は鮮明だ。
朝、妹の睦子さんと家を一緒に出て、それぞれの学徒動員先に向かうために別れたのが、睦子さんの姿を見た最後だったという。そして、のり子さんは、朝礼で点呼を受けているときに原爆が投下された。
植田のり子さん:
ぴかっと光った瞬間に伏せたんです。校舎が少し防いでくれていたんじゃないか。いた場所がよかったんじゃないかと思うが、誰も怪我をしませんでした
2人の学徒動員された場所が運命を分けた。妹の睦子さんは、爆心地から800mの土橋付近、のり子さんは爆心地から1.8キロの観音町で被爆。1キロ違うと状況は相当異なる。
植田のり子さん:
そこらへんに死体が転がっているわけですよね。それをトラックへ積んでは、どこかへ持って行ってましたから、いっぱい死体があって、どこへ持っていったのかそれは、私たちには、わからない。妹も倒れてなくなって、トラックに積まれてどこか連れていかれたんだろうと思います
原爆資料館には、今、睦子さんのその日の洋服が展示されている。睦子さんを探しに行った父が見つけたが、父の着物の生地から作ったものだから娘の服だとわかったという。