秀吉の中国大返しは偶然ではない…驚異の段取り力で信長が討たれるストーリーを想定し情報網を張っていた説

AI要約

本記事は、豊臣秀吉が信長の死を受けて異例のスピードで京都に戻り、明智光秀を打ち破る「中国大返し」を実現したエピソードに焦点を当てている。

秀吉の情報収集力と段取り力によって、異例のスピードで行動できた理由が解説されており、その背景や時系列も詳細に紹介されている。

ビジネスマンも秀吉の学びを活かし、プロジェクトや情報収集においてスピードと正確性を重視すべきだという示唆が得られる。

豊臣秀吉は主君の織田信長が本能寺で討たれたと聞き、遠征中の岡山から京都へ驚異的な速さで取って返した。歴史の知識を活かした経営アドバイスをしている増田賢作さんは「秀吉の『中国大返し』には、天下を取りたければちょっとでも早く動くべきだという学びがある。現代のビジネスマンも、秀吉の情報収集力と段取り力は見習うべきだ」という――。

 ※本稿は、増田賢作著、小和田哲男監修『リーダーは日本史に学べ 武将に学ぶマネジメントの本質34』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。

■主君の信長が討たれ、岡山から京都まで200kmの強行軍を

 本能寺の変(1582年)で織田信長が死んだとき、明智光秀以外の織田家の重臣は、京都を中心とした畿内(近畿地方)から遠くにいました。

 柴田勝家(1522?~83年)は北陸の上杉家と、滝川一益(1525~86年)は関東の北条家と、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は中国の毛利家と、それぞれに戦っていたのです。

 おそらく明智光秀は自分の勢力を広げようと、このような重臣不在の隙を狙って、信長を襲ったのでしょう。

 しかし、明智光秀の思うようにはいきませんでした。中国地方にいた羽柴秀吉が、とても速いスピードで畿内に戻り、明智との山崎の戦い(1582年)で勝利したからです。

 どのくらい速いスピードだったのかというと、本能寺の変が発生したのが1582年6月2日。そのわずか11日後、6月13日には山崎の戦いで秀吉が明智に勝利しています。

 この間、秀吉は戦っていた毛利家と和睦する必要があり、備中高松城(岡山)から移動できたのは6月4日~6日ごろ(諸説あり)とされています。

 高松城から山崎までの距離は200kmほどありますが、これほどの長距離にもかかわらず、3万人を従えて7~9日間で移動したのです。

 この中国地方からの驚異的な移動は、「中国大返し(備中大返し)」と呼ばれています。

■情報収集力と段取り力の高さで実現した「世紀の大移動」

 なぜ秀吉は、中国大返しをやり遂げることができたのでしょうか。諸説あるところですが、次の2つが有力視されています。それは秀吉の「情報収集力」と「段取り力」の高さです。

 情報収集力については、秀吉が本能寺の変を知ったのは、その翌日である6月3日夜から4日朝といわれます。これだけ早く情報収集できた理由も諸説あります。

 秀吉の生涯を描いた『太閤記』では、明智光秀が毛利家に向けて送った密使を捕まえたことにより、秀吉が本能寺の変を知ったとしていますが、多くの疑問が持たれています。

 私自身は、信長をよく知る秀吉が、信長に対する反乱はいつでも起こり得ると考え、京都の情勢が届くようにシステム化していたのではないかと考えています。一説には茶人の長谷川宗仁(1539~1606年)の使者から情報を得たともいわれます。

 いずれにせよ、早期に情報収集できた秀吉は、ほかの重臣たちよりも早く移動することができたのです。