「トップの話にろくに耳を傾けず派閥作りする不穏な動き」エアウィーヴ会長が社長や幹部に下した非情の決断

AI要約

エアウィーヴは、国内での成功を経て米国市場進出を果たしたが、製品の破損や返品が相次ぎ大きな損失を出してしまう。

結果として海外撤退を余儀なくされたが、3年の間に国内事業も急速に衰退し、社長が会長職に退くことになる。

修羅場の連続性を体験し、若き経営者が挑んだ海外進出の苦悩と教訓を明かす。

■地元のトヨタに憧れ海外進出を果たすが…

 企業の修羅場は、経営者が代わったり、新規事業に乗り出したり、市場環境が激変するなど、事業の連続性が途切れたところで起きやすいものです。我々の場合は2014年から、1回目の米国市場進出を目指したときに、修羅場の火種が生まれました。

 エアウィーヴは、私が伯父の経営していた釣り糸の押出成形機械の会社を引き受け、07年から寝具の製造販売を始めました。寝具業界にはゼロから参入したので、販路開拓には苦労しました。ただ、コツコツと努力を重ねて売り上げを伸ばしていきました。

 11年に販促活動の成果が見えたところで10店舗から30店舗に、さらに12年には一気に100店舗へと拡大させて、国内事業の基盤を整えました。そこで「次は米国進出だ」となったわけです。

 私は愛知県の出身で、名古屋の私立東海中学校・高等学校に通いました。土地柄から「親の会社はトヨタと関係がある」という同級生がたくさんいて、経済的にも恵まれた家庭の子が多かったように思います。そこでトヨタの歴史を調べ、豊田喜一郎さんが織機の会社を受け継いで自動車造りに舵を切り、クラウンを米国で走らせ散々な評価を受けるも、諦めず世界で認められるメーカーに育て上げていく立志伝を知ったのです。難しい市場への挑戦で、世界を喜ばせる。「自分もこんな経営者になりたい」と憧れを抱きました。

 そんな若者だった私も、運よく自分で事業を興し、皆さんに知ってもらえる会社に育てることができました。そのまま国内でやっていれば、安定して事業を継続できたはずですが、私はチャレンジがしたかった。「国内でこれだけお客様に喜ばれる製品を作ったのだから、海外でも売れないはずがない。規模は違えど、トヨタのように世界に挑戦してこそ地域や国にも貢献できる可能性が広がるのだ」と思ったのです。

 会社は事業の急拡大に合わせて採用を増やしていましたが、成長性に魅力を感じて当社に応募する人もいます。彼らの意欲や才能を生かし、企業としての勢いを維持するためにも、より高い目標を掲げ挑戦していく必要があると思いました。ベッド文化の本場で、3億人の多様な市場がある米国への進出にためらいはありませんでした。

 しかし、結果としてこの挑戦はうまくいきませんでした。日本で製造したマットレスを現地でお客様にお届けする過程で破損して返品が相次ぐなど問題が重なり、16年には年間で20億円もの損失を出してしまったのです。

 撤退を決め現地の店舗を閉鎖すれば、ひとまず出血は止まります。問題は私が海外に出ずっぱりだった3年の間に国内の売り上げがみるみる落ちて、事業基盤がすっかりダメになってしまっていたことでした。

 海外進出にあたり、私は14年に社長を辞し会長職に退きました。日本では職位によって、仕事の範囲や社会的な扱いが異なります。私が海外事業に本腰を入れれば、国内事業が手薄になってしまいます。周囲からも「稼ぎ頭である国内市場をおろそかにしている」と見られかねない。そこで国内事業は新しい社長に任せ、私は米国でのビジネスに集中できる体制にしたのでした。