「それでもダメなら、わしの頭を殴っていい」会社を辞めたがる新入社員に松下幸之助が提示した"条件"
松下幸之助は部下に経験を大切にし、一度目の失敗は経験と捉え、二度目の失敗は厳しく叱責した。
幸之助は部下の責任感と義務を重んじ、行動に責任を持つことを教えるために厳しい態度を取った。
幸之助は常に人としての価値観や道徳を大切にし、部下にも同様の価値観を持つことを教え、指導した。
パナソニック創業者の松下幸之助は、部下に対してどのように接したのか。PHP理念経営研究センターの編著書『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP研究所)より、一部を紹介する――。
■一度目は経験、二度目は失敗
昭和30(1955)年ごろのこと、競争の激化によって、電機業界は非常に混乱していた。松下電器の代理店の中にも倒産するところが出て、被害総額は数百万円にものぼった。
倒産した代理店を管轄していた東京営業所の所長は、責任を感じ、始末書を持って、本社の幸之助のもとに出向いた。そして、こういう大きな損害をこうむった、これだけのお得意先に迷惑をかけた、金額はこれだけである、その原因はこういうところにある、と一つひとつ報告し、
「これはやはり私の監督不十分であります。まことに申しわけありませんでした」
と、頭を下げた。
「二度とこういうような失敗をくり返さないために、こういう対策を立てました。当面の処置対策はこのようにいたします」
じっと聞いていた幸之助は、
「そうか。きみな、一回目は経験だからな。たいへん高い経験をしたな。しかし、二度くり返したら、きみ、これは失敗と言うんだぞ。二度と犯すなよ」
そして尋ねた。
「ところできみ、最近の市況はどうや。ラジオや電球はどうや」
厳しい処分が下ることを覚悟していた営業所長は、そのひと言に涙があふれた。
■おまえまでがそんなことをするのか!
松下電器の社員が50名くらいになっていた、夏の暑い日であった。その日のうちに、どうしても仕上げてしまわなければならない仕事があって、5、6人の社員が幸之助から残業を命じられていた。
ところが、遊びたい盛りの若い社員である。残業を命じられていた者も、みな仕事をほうって、広場に野球をしに行ってしまった。最後まで残っていた先輩格の一人が、皆に遅れて工場を出ようとしたときである、幸之助が出先から戻ってきた。
頼んでおいた仕事はできたのか、みんなはどこへ行ったのか、と尋ねる幸之助に、その社員は、仕事はあす仕上げることにして、みんな遊びに行ってしまったこと、自分もこれから行くところであることを告げた。
「なんやて。残業してやってくれと言うたのになんでやらんのや! 仕事をほっといてボール投げに行くとは何ごとか。それだけやない。おまえまでがそんなことをするのか!」
「……」
翌日、仕事が終わるころ、幸之助から呼ばれたその社員は、思いがけず夕食をご馳走になり、長い訓示を受けた。
「他人が遊んでいたら、自分も遊びとうなるやろ。けどな、命じられ、引き受けたことは、やり遂げる責任がある。その責任を果たすということは、人としていちばん大切なことや。そやから、わしはあれだけ怒ったんや。わかったか」
諭すような幸之助の言葉だった。
*「きみならば」「おまえまでが」「きみともあろう者が」という呼びかけは、幸之助がよく口にしていた表現である。