羽田じゃない方の都内空港で続く”異常事態”…「事故の対策です」←本当に解決になってます?

AI要約

調布空港は自家用機の運航がほぼ不可能な状態にあり、その原因は滑走路の長さが制限されていることだ。

滑走路の長さが短いため、2015年の事故では離陸時に問題が生じ、犠牲者が出た。事故は滑走路の長さの重要性を示唆している。

現在も滑走路は元の1000mに戻されておらず、滑走路全長の制限が供用規定によって課されている。

羽田じゃない方の都内空港で続く”異常事態”…「事故の対策です」←本当に解決になってます?

 東京都内には、離島を除くと羽田空港のほかに、もう1か所、旅客機が発着する空港があります。それが調布空港(調布飛行場)です。ここは旅客定期便の発着という役割のほかに、都内で唯一、小型機が使用可能な貴重な空港でもあります。しかし、この場所、都が管理する公共飛行場としては極めて異常な状態が、2024年現在も続いているのです。

 それは、調布空港では現状、自家用機の運航がほぼ不可能、ということです。なぜこのような状態になってしまったのでしょうか。同空港の歴史を含めて振り返ってみたいと思います。

 調布飛行場は1941年、東京府(当時)が「東京調布飛行場」として開設しました。開設時は南北方向に長さ1000mと東西方向に500mの滑走路が交差する形で配置されていました。

 その後、第2次世界大戦が始まると、調布空港は日本陸軍が用いる軍用飛行場になり、戦後は在日米軍施設へと姿を変えたのち、1973年に日本側に返還されました。返還時の滑走路は開設当初と同じ1000mの長さがありましたが、飛行場の北側にあった焼却炉の煙突が障害物になるため、北から着陸進入時の接地点を200m南に移す措置が講じられています。

 このようなケースでは、着陸のための接地点だけをズラし、離陸時は滑走路の全長をそのまま使用する方法が一般的です。航空機が安全に離陸するためには、滑走路は長い方が有利だからです。ところが、調布空港では舗装部分は1000mのまま残したものの、接地点のマーキングを移動した際に、着陸だけでなく離陸についても800mしか使えない滑走路としてしまいました。

 調布空港の着陸進入の支障となっていた焼却炉は、老朽化のため廃止となり、2008年には煙突も撤去されたものの、滑走路は元の1000mに復元されることはありませんでした。

 なぜ、元に戻さなかったのか。滑走路の再延長を妨げたのは供用規定です。これは、調布飛行場が国から都へ移管になった際に、地元3市(三鷹市、府中市、調布市)が規模拡大を阻止する目的で、東京都と使用の制限を定めた協定を結んでいたからです。本来なら、社会インフラの整備と拡充は行政が担うべき重要な役割のはずですから、この協定は非常識で無責任なものだと筆者(中島二郎:航空アナリスト)は考えています。

 そのようななか2015年7月26日、調布空港から離陸した小型機が、その直後に住宅地へと墜落する事故が発生します。機体が落下した住宅では火災が発生し、残された犬の救助に向かって焼死した住民1名と搭乗者1名の2名が犠牲になったのです。

 事故を起こしたフライトは、夏の暑い日に最大離陸重量に近い重さで短い滑走路から離陸することが求められていました。これは航空機にとっては過酷な条件です。映像を見ると事故機は滑走路端ぎりぎりまで滑走してやっと離陸している様子がうかがえます。

 航空機の性能は気温に大きく左右されます。暑い日は空気密度の減少により離陸速度は普段より速くなりますが、エンジンの出力は逆に減少してしまうのです。事故機は、取り込む空気を圧縮し空気密度を向上させる「タービン過給機」を装備していましたが、それでも高温時に離陸性能が低下することに変わりはありません。十分な速度が得られないまま離陸したため、離陸直後に失速して墜落したと考えられます。

 事故後、専門家の多くは旧来の滑走路全長を使用して離陸することが可能であったならば事故は防げた可能性を指摘しました。少しでも長い滑走路があれば十分に安全な速度まで加速してから離陸することが可能だからです。つまり、滑走路を元の1000mに戻していたら事故は防げた可能性が示唆されたといえるでしょう。