だから「20人の婚外子」と「500の会社」を作った…「新一万円の顔・渋沢栄一」が最晩年まで守り続けていたこと

AI要約

新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一は、日本資本主義の父と呼ばれる偉大な経営者であった。彼は多くの企業や事業を設立し、日本の近代化に貢献した一方で、私生活では多くの愛人や子供を持つなど、複雑な人間関係を持っていた。

渋沢栄一は500を超える企業を立ち上げ、日本の経済の礎を作った。しかし、彼のひげを理由に過去に新紙幣の肖像から外されたことや、女性関係が派手であることも知られている。

私生活と功績のギャップが大きい渋沢栄一は、多くの愛人や妾を囲みながらも公益の人として貢献を続けた。彼の功績は偉大でありながら、その人間性には矛盾があった。

人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。新一万円札の顔に選ばれた渋沢栄一は、1000を超す企業や事業の設立にかかわる一方、艶福家だった。ライターの栗下直也さんは「可能な限り多くの人と会い、分け隔てなく接した。その根底には生涯守り続けた孔子の教えがあった」という――。

■自宅に妻と妾を同居させ、子どもの数は20人以上

 7月3日に紙幣が刷新された。1万円札の肖像には福沢諭吉に変わり、渋沢栄一が採用された。渋沢は日本資本主義の父と呼ばれた。民間経済の活性化こそ国の発展につながると訴え、多くの株式会社を設立した。

 みずほ銀行、東京証券取引所、日本赤十字社、東京ガス、帝国ホテル、王子製紙、東急電鉄、キリンビールなど日本の近代化の礎となった数々の大企業を立ち上げ、その数は500近い。経済のインフラといえる業種が大半で、渋沢が立ち上げた企業が私たちの日常を支える。

 功績からしてお札の肖像に選ばれるのは不思議ではない。むしろ、遅かったとの指摘もある。実際、渋沢は1963年にも一度、新千円札の肖像の候補にあがったが、外されている。落選した理由は「ひげ」だ。

 当時は紙幣の偽造防止技術が進歩していなかったため、ひげのない渋沢は肖像が複雑にならず、偽造の可能性を排除できなかったのだ。そこで、豊かな口ひげやあごひげをたくわえた伊藤博文が、採用されたといわれている。

 この際、まことしやかにささやかれたのが「渋沢は女性関係が派手だから落とされた」という説だ。伊藤博文も女性関係は派手で「箒」(愛人が掃いて捨てるほどいたため)と呼ばれていたくらいなので、女性問題を理由に肖像から外されることはないのだが、確かに渋沢はスケールが違う。

■「ああ」は自宅、「うん?」は妾宅

 愛人の数が7人だの20人だのいわれ、女性の元に通うだけでなく、邸内に妾を囲っていた時期もあった。子供の数も婚外子をあわせると20人だの50人だのいわれている。

 例えば、第一銀行頭取などを務めた長谷川重三郎が渋沢の息子であることは公然の秘密であった。関係者にしてみれば、衝撃は、長谷川が渋沢の子であることよりも、渋沢が68歳の時の子どもであったことだろう。また、あまりにあちこちに子供をもうけたため、実の息子と愛人の息子が学校で同じクラスになることもあったとか。

 子どもも多いので、子孫の面々も顔ぶれ豊かで、財界人のみならず、孫に指揮者の尾高尚忠、曾孫に競馬評論家の大川慶次郎、作家の渋沢龍彦は栄一の縁戚にあたった。

 「令和の今ならばともかく、昔はそういう時代だろ」との声も聞こえてきそうだが、当時でも渋沢は大変な好色家として知られていた。

 有名なエピソードがある。

 三男が仕事から帰るときに、父親の車に同乗させてもらうことがよくあったが注意点があったという。「御陪乗願えましょうか!」と聞いて「ああ」とすぐに返事があった場合はOKだが、「うん?」のような曖昧の返事の場合は、すぐに引き下がらねばいけなかった。曖昧な返事は「別宅」にいくサインだったからだ。

■私生活と功績の大きなギャップ

 渋沢の妻の兼子も夫の女性好きには呆れていた。息子に「論語とはうまいものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね」とこぼしている。

 家族だけではない。小説家の幸田露伴は渋沢の評伝を書いたが、渋沢の好色ぶりは最後まで好きになれなかったという。また、作家の大佛次郎は学生時代に渋沢が妾を囲っていると聞き、「伊藤博文ならともかく、渋沢栄一がそんなことをするなんて」と衝撃を受けたとしている(彼はのちに渋沢の伝記小説を書いている)。

 妾が公認されていた時代とはいえ、渋沢の輝かしい功績とその私生活にいかに乖離があったかがわかるだろう。

 もちろん、功績はすごい。彼は資本主義の仕組みは熟知していたが、自身の利益を追求することにその仕組みを使わなかった。生涯、公益の人を貫いた。多くの会社を立ち上げたが、それらの会社が日本を代表する企業になりながらも、令和の今、三井や三菱のような財閥を形成していないことからも明らかだろう。

 ちなみに、渋沢と三菱グループの創業者の岩崎弥太郎との間には有名なエピソードがある。「向島の決闘」だ。「決闘」といっても、別に、本気で殴り合ったわけではなく、向島の料亭で岩崎と経営に対する考え方について激論を交わしたのだ。