防衛の「南西シフト」で新設の陸自石垣駐屯地 隊員の努力となおも消えない住民の不安

AI要約

自衛隊は7月1日、創設70周年を迎えた。日本周辺の安全保障環境が安定しないなか、自衛隊が「最前線」と位置付けるのが、沖縄を含む南西諸島に駐屯する部隊だ。

石垣島は山が多い地形で、住民はかつてマラリアから逃れるために港周辺に集まった歴史がある。第2次世界大戦末期、八重山諸島で多くの人がマラリアで命を落とし、石垣島は悲しい歴史を持つ。

陸上自衛隊石垣駐屯地は南西シフトの最後の拠点で、自衛隊員は地元住民との絆を大切にしながら、有事に備えて訓練を行っている。

防衛の「南西シフト」で新設の陸自石垣駐屯地 隊員の努力となおも消えない住民の不安

自衛隊は7月1日、創設70周年を迎えた。日本周辺の安全保障環境が安定しないなか、自衛隊が「最前線」と位置付けるのが、沖縄を含む南西諸島に駐屯する部隊だ。「南西シフト」の最後の駐屯地として昨年3月に開所した陸上自衛隊石垣駐屯地を訪れ、島の人々にも話を聞いた。(牧野愛博=朝日新聞外交専門記者)

沖縄県石垣島。タクシーの運転手さんが「住民の大半は石垣港周辺に住んでいます」と教えてくれた。港周辺はバスや離島に向かう船のターミナル、商店街などでにぎわう。「なぜ、そんなに多くの住民が」。筆者の問いに運転手さんは「マラリアと戦った結果ですよ」と話してくれた。石垣島は山が多い地形だ。住民はマラリアから逃れるため、徐々に港周辺に集まったという。

第2次世界大戦末期、石垣島や竹富島などの八重山諸島で、マラリアによって3600人余りが亡くなった。石垣島などを守備した日本陸軍の独立混成第45旅団は、沖縄戦で第32軍の敗北が決定的になった後の1945年6月、住民を山岳地域に避難させた。その結果、「戦争マラリア」によって大勢の人が命を落としたという。石垣島は沖縄本島に比べ、自衛隊に対するアレルギーが少ないとされるが、それでもこうした悲しい歴史が人々の脳裏から消えたことはない。

筆者は6月3日、陸上自衛隊石垣駐屯地を訪れた。2021年10月にまだ建設途中だった駐屯地周辺を取材したことがあった。当時、駐屯地付近に設置されていた、駐屯地に反対する看板がそのまま残されていた。石垣駐屯地は2023年3月、自衛隊の「南西シフト」の拠点の一つとして開設された。八重山警備隊のほか、地対艦ミサイルと地対空ミサイルの両部隊が配備され、約570人の自衛隊員が駐屯している。

駐屯地内部ではまだ追加施設の整備が続いていた。

「南西シフト」の最初の拠点、与那国駐屯地ができたのが2016年。それから、奄美、宮古と次々と駐屯地を開設した。当時、自衛隊関係者は「ようやく間に合った」と息をついていた。関係者たちには、全部の施設が完成するまで待っていたら、米中の戦力バランスが崩れる一方の西太平洋の地域情勢に対応できなくなるという危機感があった。自衛隊は石垣駐屯地の開設にあたり、環境への影響を最小限に抑えるよう努力してきた。現在も、施設整備が続いているが、汚水を流さない工夫をしているのだという。

駐屯地司令を務める井上雄一朗1等陸佐にインタビューした。井上1佐は「私たちの駐屯で、戦争を防ぐための抑止力は上がったと思う。ただ、実際の有事の時、最初に対処を担うのも私たちだ」と語る。そのうえで井上1佐は「絶対に避けなければならないのが、島内がバラバラになること。私たちは戦争を起こすために、石垣島に来たわけではない」と語る。

井上1佐は子供のPTAや防犯協会の活動に参加している。毎朝、自宅付近を5キロほどジョギングすると、島民から「毎日、元気だね」「駐屯地まで車で乗せて行ってやろうか」など、様々な声がかかるようになってきたという。「島が結束するために、まず私たち自衛隊員と家族が石垣市民としてしっかり生活し、自衛官は普通の人間だと理解してもらうことが必要」と話す。

井上1佐の願いや駐屯地の隊員たちの努力が続くが、物事はそう簡単には進まない。

石垣島内で、住民の目に触れるような戦闘訓練は昨年10月の基地開放行事の際に、小銃と機関銃の空砲を使ったときだけだ。このときも、「空砲の音が大きい」と懸念する住民の声に配慮し、事前演習は行わなかった。公道に出たのも、今年4月24日に災害救助の支援物資を輸送する訓練をしたのが最初で最後だ。