<証言・中東現代史>「豊かな海」奪われた漁師 封鎖政策に突き進んだイスラエル

AI要約

パレスチナ自治区ガザ地区の漁業における困難さと経済停滞の背景

イスラエルによる封鎖が住民の生活や経済に与える影響

ハマスとイスラエルの間で続く紛争が地域の若者に与える影響

<証言・中東現代史>「豊かな海」奪われた漁師 封鎖政策に突き進んだイスラエル

 ◇花岡洋二(エルサレム支局=2010~13年)

 月明かりはなく、船上を照らす裸電球3灯だけが頼りだった。

 2010年6月のある深夜、パレスチナ自治区ガザ地区の漁師が地中海で行うイワシ漁に同行した。ところが5時間の水揚げは稚魚ばかりで30キロほどしかない。これでは燃料代すらまかなえず、漁労長は「家族をどうやって養うのか」と嘆いた。

 { 混迷の度合いを深める中東情勢の源流を、毎日新聞の歴代特派員の証言で振り返ります。この記事は連載の第12回です。}

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 00年代、イスラエルは対パレスチナ強硬政策を取った。「武器の密輸を防ぐ」などとして陸・海・空を通じたガザへの人や物の出入りを制限する「封鎖」を進めた。

 オスロ合意などではガザの漁師は沖合20カイリ(約37キロ)まで操業できるはずだったが、封鎖により同3カイリ(約5・5キロ)に制限された。

 漁労長によれば、成魚が生息するのは沖合5カイリ(約9・3キロ)以上。豊かな漁場は奪われた。「2カイリを過ぎると、軍が投光器や拡声機、発砲で威嚇を始める。命をかけて漁はできない」。12歳の息子を含む8人が無償で働く前提でも、燃料代など経費の3分の1にもならない。

 ◇自尊心も傷つき

 ガザ市内の国連機関へ支援物資を取りに来ていた当時25歳の男性の言葉が印象に残る。コメや小麦粉、砂糖などの入った袋を地面から拾い上げると、私に「うれしい」と言った後に「俺は漁師だった。海があれば、こんなものは要らない」と憤った。

 男性が食料支援を受け始めて3年がたっていた。生後6カ月の長男と妻には、外国からの援助品を食べさせるしかない。働いて家族を養う機会と尊厳のある日常は奪われていた。

 当時の国連報告書によると、ガザの本来の漁場の85%と農地の35%がイスラエルの規制で完全には利用できなかった。

 かつて多くのガザ住民がイスラエルに通い、建設現場などで働いていた。00年には1日平均2万6000人が越境していたが、11年には平均170人にまで減った。ガザの失業率は34%に達し、住民の80%は食糧などの援助を受けていた。

 ◇封鎖で経済停滞

 衣類や家具、果物などの、イスラエルやヨルダン川西岸への出荷も、1日平均でトラック1台分しか認められていなかった。完全封鎖直前の平均の3%以下だ。報告書は、封鎖が「持続可能な経済成長を妨げ、高い失業率や食糧不安、援助への依存を固定化している」と結論した。

 住民にとり、地区を実効支配する組織ハマスを支持する以外に選択肢は見当たらない。ハマスなどの武装勢力がロケット弾をイスラエルに撃ち込み、イスラエル軍が報復で空爆する事態が繰り返された。12年11月には、ハマス軍事部門のトップをイスラエル軍が暗殺したのを機に、8日間の戦闘があった。停戦時の記事によればガザでは161人、イスラエルでは5人が亡くなった。

 その時にガザで話を聞いた14歳のパレスチナ人少年は笑顔で「報復」を望んだ。一方、イスラエル南部で自宅にロケット弾を撃ち込まれた16歳のユダヤ人少年が「(イスラエル軍が)地上侵攻して、ハマスを壊滅させたらいい」と主張した。

 2人が健在なら、社会の中核を担う20代後半の青年になっている。やまぬ紛争と憎悪の応酬に今、何を思っているだろうか。

 ◇はなおか・ようじ

 1993年入社。広島の原爆被害やインド洋大津波など戦災・自然災害を取材。現在は、英文ニュースサイト「The Mainichi」編集長。