日本フェンシングはなぜ「史上最強」になれたのか…競技人口6000人の“マイナー競技”を20年かけて飛躍させた「強化計画」と「外国人コーチ」の系譜

AI要約

日本代表チームがパリ五輪で史上最強の活躍を見せ、5つのメダルを獲得した。

フェンシングは日本ではマイナー競技だが、強化策の成果が現れている。

日本代表チームは2003年から強化され、長期合宿など徹底した取り組みでレベルアップした。

日本フェンシングはなぜ「史上最強」になれたのか…競技人口6000人の“マイナー競技”を20年かけて飛躍させた「強化計画」と「外国人コーチ」の系譜

「史上最強」は、偽りではなかった。

 フェンシング日本代表は、パリでひときわ輝いた。

 過去、オリンピックでのメダル数は男子フルーレで2つ、エペで1つ。

 今大会では、男子エペ個人で加納虹輝が個人種目では日本初の金メダルを獲得すると、女子フルーレ団体で日本女子初の銅メダル。男子エペ団体で初の2大会連続メダルとなる銀メダル、女子サーブル団体ではサーブルで男女を通じて初の銅メダル。そして男子フルーレ団体でフルーレ初の金メダルを獲り、締めくくった。「初」が5つのメダルすべてに冠せられることも、成果の大きさを物語る。

 パリ五輪開幕を控え、日本代表の青木雄介監督は「過去の日本チームの中で最強だと思っています。最強であることをしっかりと証明したいと思います」と語った。

 その言葉の通り、「史上最強」を実証してみせたが、数々の活躍はかつてを考えれば隔世の感がある。

 フェンシングは、日本ではマイナー競技と言われてきた。今もそのこと自体は大きく変化していない。競技人口は、日本フェンシング協会が明らかにした数字では2022年で6400人ほど。フェンシング発祥のフランスは約6万。フランスに限らず、特にフェンシングが盛んなヨーロッパ各国には圧倒的に見劣りする。

 競技の土壌は、競技成績にも表れていた。入賞の数も20世紀は東京、ミュンヘン、ロサンゼルスの男女フルーレ団体の計3度のみ。世界と伍して戦うと言えるところにはほど遠かった。

 変化のきっかけは2003年にさかのぼる。ウクライナのオレグ・マツェイチュクを男子フルーレ日本代表ヘッドコーチに招へいしたことだ。当時としては画期的な出来事だった。強化のトップにいた張西厚志日本フェンシング協会専務理事(当時)はこう語っている。

「シドニー大会ですべての種目が初戦あるいは2回戦敗退に終わり、世界と戦えないままでいてはいけない、オリンピックでメダルを、そんな声が強まりました。それがスタートになりました」

 マツェイチュクは「世界で勝てるチームを」と依頼されたと言う。当時の日本の印象を、言葉を慎重に選びながらこう語った。

「『フェンシングが強くない国』でした。コーチになる前の日本選手への印象は、敏捷性があるけれど技術のレベルは低い。ただコーチになってみて、みんな一生懸命練習することを知りました」

 もうひとつ行ったのが長期合宿、いわゆる「500日合宿」だった。北京五輪を前に協会が都内に住居を用意。全国に散らばっていた代表選手たちはそこで生活しながら、国立スポーツ科学センター(JISS)で練習したのである。追いかけるべき日本のほうが練習量が多くなければいけないのに、実際には海外勢より明らかに少ないことからの取り組みだった。マツェイチュクもこう捉えていた。

「海外の強い選手に比べて練習時間が短いのに『勝てない』と悔しがるのはおかしいと思います。勝つためには海外よりもっと練習しないと」

 潤沢な資金はない中、地道に強化方針と「2008年の北京でメダルを獲る」という目標を説明して資金を募った。社会人として働きながら競技を続けている選手もいたが、各職場の理解を得て、参加にこぎつけた。