「絶対に“大丈夫?”と聞かなかった」バレーボール始めて5年で日本代表に…“未知の世界”に飛び込む息子を支えた母の愛情「返信なんて、ないない」

AI要約

日本代表としてパリ五輪に出場する山内晶大の異色のキャリアや日本代表入りの衝撃、そして母親の支えに焦点を当てる。

晶大は14年のバレー歴のうち10年を日本代表として過ごしており、そのキャリアに本人も家族も驚きを隠せない。

母・純子さんは息子の日本代表入りに驚き、支えになるために努力を惜しまなかったが、初めは息子が日本代表であることを理解するのに時間がかかった。

「絶対に“大丈夫?”と聞かなかった」バレーボール始めて5年で日本代表に…“未知の世界”に飛び込む息子を支えた母の愛情「返信なんて、ないない」

 パリ五輪・予選リーグ初戦で難敵ドイツに敗れたバレーボール男子日本代表。まさかの黒星スタートとなったが、フルセットまでもつれた大接戦で何度も試合の流れを手繰り寄せたのがミドルブロッカーだった。絶対負けられない次戦を前に、男子バレーの進化を象徴する“2mトリオ”の原点に迫る。本稿では、山内晶大の母・純子さんを取材した。《NumberWebノンフィクション全6回の4回目/第1~2回小野寺太志編は公開中》

 バレーボール男子日本代表としてパリ五輪に出場する山内晶大(30歳)のバレー歴は14年。そのうち、日本代表歴は10年にもおよぶ。

 異色のキャリアに本人も苦笑いを浮かべる。

「そんな選手、いないですよね。むしろ僕のバレー歴の半分以上どころか、ほぼすべてが日本代表なんです」

 全国的には無名な名古屋市立工芸高校でバレーボールを始め、たままた高身長が目に留まって愛知学院大学へ進学。アンダーカテゴリーでの代表経験はもちろん、目立った全国大会の実績もない自分がいきなりトップ選手が集う日本代表に選出されるなど、学生時代は想像できるはずもなかった。

 それは本人だけでなく、家族も同様だった。だから息子から「日本代表」と聞かされた時はかなりの衝撃があったと母・純子さんは振り返る。

「晶大から『シニアだって』と言われた時、思わず言い返したんです。『シニアって何? 』って。そうしたら晶大も『わかんない』って(笑)。でも(愛知学院大バレーボール部監督の)植田(和次)さんから言われたと言うから、調べてみたら日本代表のトップだとわかって……。中学や高校の頃から強豪校にいたら、誰々がジュニアに入ったとか、そういう情報があるのかもしれないですけど、私たちの周りにはそういう人は誰ひとりいない状況だったので、まったく理解できませんでした」

 純子さん自身も中学、高校でバレーボール部出身。最高成績は県大会出場でトップレベルを経験してきたわけではないが、今の息子が日本代表として選ばれるはずがないことだけはわかっていた。

 2014年4月、大学3年生だった晶大は日本代表登録メンバーに名を連ねる。

「メディカルチェックに行くから、と言われた時に、あぁ、あの有名な『味の素ナショナルトレーニングセンター』に行くんだって。そこで初めて(日本代表なんだと)実感しました」

 当時のことは、晶大自身から何度も取材で聞いている。ナショナルトレーニングセンターの最寄り駅である「赤羽」がどこに位置しているかも把握しておらず、いざ施設に到着してもどこから入ればいいかすらもわからない。日本代表のメンバーを見渡しても、会話できる人はおらず、顔見知りだったのは高3時の国体選抜で一緒だった石川祐希と、山形県選抜と練習試合をした時に対戦した高橋健太郎ぐらい。ほとんどが自分より年上で、テレビで見たことのある選手がずらりと揃う中、晶大は一人で下を向いて座っていた。

 今となっては笑い話だが、当時味わった心細さは想像するだけで胸が痛い。日頃から「よほど必要なことがある時ぐらいしか連絡が来ない」という純子さんも同様で、関係者から話を聞くたび、心配で仕方なかったと振り返る。

「後になってから、深津(英臣)さんや清水(邦広)さんにはすごくよくしてもらったと聞きましたけど、最初の頃はつらかっただろうなって」

 離れた場所で戦う息子に母として何ができるか。せめて、大学から合宿に向かう時に送り迎えができないかと考え、当時のパート先に申し出た。

「当時の上司に『仕事を早く上がったり、少し遅れてもいいですか? 』と直談判したんです。厳しい方だったんですけど、『そういう理由ならいいよ。周りの人にもちゃんと伝えてね』と許可してくれた。その時、冗談半分で『将来オリンピック選手になれたらいいね』と言われたんです。転勤してしまって、もう会うことはないんですけど、『オリンピック選手になれましたよ』って報告したいですね(笑)」