「周囲は猛反対だった…」159cm佐野優子が“世界一のリベロ”になるために決断した海外移籍「石川君たちのように…女子もやっと増えてきた」

AI要約

佐野優子が海外移籍を決意した理由とその苦悩について

周囲の反対を押し切って海外でのプレーを続けた挑戦の過程

海外でのプレーが彼女のプレースタイルにどのような変化をもたらしたか

「周囲は猛反対だった…」159cm佐野優子が“世界一のリベロ”になるために決断した海外移籍「石川君たちのように…女子もやっと増えてきた」

 元バレーボール女子日本代表・佐野優子氏の五輪直前インタビュー。全3回の2回目では、「世界一のリベロ」への土台を築いた海外移籍について。周囲の反発を押し切ってでも海を渡った理由とは? 【NumberWebインタビュー全3回/最終回ではクレープ屋を営む現在の姿を取材している】

 佐野優子が初めて日本代表に選出されたのは2002年。だが04年のアテネ五輪では五輪予選の前にメンバーから落選した。そこから、どのように世界一のリベロへと駆け上がったのだろうか。

 きっかけは海外移籍だった。

 佐野は所属していた東レアローズを退社し、04-05シーズンにフランス・RCカンヌに移籍した。その後、久光製薬スプリングスを経て再び海外へ。アゼルバイジャン、トルコ、スイスと渡り歩いた。海外に根を張って長くプレーした初めての日本人選手だ。

 海外でプレーしたいと考えるようになったきっかけは、02年世界選手権だったと振り返る。

「ドイツで開催されたんですけど、ボロ負けで予選敗退でした。自分自身のプレーも全然伴っていなくて、ボロボロになって、本当に何もできずに帰ってきました。その後東レに戻って国内でリーグをやる中で、『海外のチームとやる感覚と全然違うな』と感じたんです。対日本人ならできても……。『自分が苦手なのはこういう球じゃないんだよな』って。

 次の年また代表に選ばれたんですが、海外の選手のボールが来た時に不安で不安で。最初から最後まで不安の中で試合をしていた。だから『このまま日本にいても苦手意識は克服できへん』と。海外の選手相手にずっと試合をするしかないと思って、海外一択で考えるようになりました」

 2003年、東レを退社した。

「若かったから。あとさき考えずに動いちゃいましたね」と苦笑する。

 当時は海外でプレーするハードルが今よりずっと高かった。「海外に行きたい」という希望を表明しても、好意的に受け取られることは少なく、周囲から猛反対された。

「途中で帰ってきたり、給料も未払いだったり、問題が多いからやめておいたほうがいいよ」と忠告もされた。

 大人しそうに見えて、佐野は頑固で芯が強い。反対されたからといって決意が折れることはなかったが、当時はエージェントの存在も知らず、誰に相談すればいいのかもわからなかった。結果的に03-04シーズンは所属先がなく、リーグ期間中はハローワークに通いながら、ジムで一人でトレーニングをする毎日。アテネ五輪はメンバーから落選した。

 それでも04年にようやく見つけた移籍先のカンヌで人生が変わった。それまで抱いていた固定観念をことごとく覆された。

「それまではウエイトトレーニングの重要性を全然わかっていませんでした。日本では当時、レシーバーだから足だけ鍛えていたらいいよ的な流れだったんです。でも海外に行くと、リベロも他の選手と同じように上半身と下半身のトレーニングをする。『やっぱ上半身、必要か』と思って。今考えたら当たり前なんだけど(笑)。

 上半身のトレーニングをしっかりやるようになってから、レシーブをしていても『全然違う! 』と感じるようになりました。それまでは強い打球に負けていたんですけど、上半身が強くなったら強いボールにも負けないし、取る位置も変えられた。返すボールの質や角度も変わりました」